2011年01月10日
カルビン・クーリッジ
ジョン・カルビン・クーリッジ (John Calvin Coolidge Jr., 1872年7月4日 - 1933年1月5日)は、アメリカ合衆国の第29代副大統領および第30代大統領。在任期間は1923年8月3日から1929年3月4日。なお日本語では「カルビン」と表記されることが多いが、英語の発音は「カルヴァン」である(Calvin Klineを「カルヴァンクライン」とするのと同様)。 無口で「寡黙なカル」と呼ばれた。
目次 [非表示]
1 生い立ちと経歴
2 大統領職
2.1 内閣
3 引退と死
4 サイレント・カル
5 関連項目
6 外部リンク
生い立ちと経歴 [編集]
クーリッジは1872年7月4日バーモント州ウィンザー郡プリマスで、ジョン・カルビン・クーリッジシニアとビクトリア・ムーア夫妻の間に生まれた。クーリッジは独立記念日に生まれた唯一の大統領である。バーモント州のセントジョンズベリー・アカデミーで学んだ後マサチューセッツ州のアムハースト大学に入学、同大学を1895年に卒業し、そのときに名前から「ジョン」を外した。彼はノーザンプトンで弁護士となり、1899年に市議会議員になった。1900年から1902年まで市事務弁護士、1904年に法廷事務官、1907年から1908年まで下院議員を務めた。
クーリッジは1905年にグレース・アンナ・グッドヒューと結婚した。彼らの個性は正反対で、クーリッジは無口であったのに対し、グレースは話し好きであった。結婚後間もなくクーリッジは彼女に52足の穴が開いた靴下の詰まったバッグを手渡した。グレースは「あなたは靴下を繕わせるために結婚したの?」と尋ねたが、クーリッジは「違うよ。でもそれはすごく便利だ」と答えたという。夫妻の間には1906年に生まれたジョン・クーリッジと1908年に生まれたカルビン・ジュニアの二人の息子がいた。
クーリッジは1910年と1911年ノーザンプトンの市長に選ばれた。1912年から1915年まで上院議員、1914年と1915年に議長を務め、1916年から1918年まで州副知事および1919年から1920年まで州知事を務めた。1919年にボストン警察がストライキを行った時、クーリッジは州兵の出動を命じ全国的な注目を引いた。彼は後に労働組合の幹部、サミュエル・ゴンパーズに「誰にも、どこに於いても、いついかなるときも公の安全に対するストライキの権利はない」と言い放つなど、労働運動に敵対的であった。
大統領職 [編集]
クーリッジは1920年に共和党大統領候補の指名を求めたが、オハイオ州上院議員ウォレン・ハーディングに敗れた。人々は副大統領候補にウィスコンシン州の上院議員アーヴィン・レンルートの指名を求めたが、共和党はクーリッジを指名した。大統領選でハーディング=クーリッジは、民主党の大統領候補オハイオ州知事ジェイムズ・コックスと副大統領候補海軍次官フランクリン・ルーズベルトのペアとに打ち勝った。
副大統領として1921年3月4日から1923年8月3日まで在職し、ハーディング大統領の死に伴い1923年8月3日に大統領に昇任した。彼が大統領の死の知らせを得た時、家には電気も電話もなかった。クーリッジは1923年8月3日の午前2:47、自宅の応接室で公証人である父親の立ち会いの下、灯油ランプの灯りで就任宣誓を行った。クーリッジはワシントンD.C.に戻ると最高裁判所長官ウィリアム・ハワード・タフトの立ち会いで再度就任宣誓を行った。
内閣 [編集]
1924年の移民法に署名するクーリッジ
職名 氏名 任期
アメリカ合衆国大統領 カルビン・クーリッジ 1923 - 1929
副大統領 空席 1923 - 1925
チャールズ・G・ドーズ 1925 - 1929
国務長官 チャールズ・エヴァンズ・ヒューズ 1923 - 1925
フランク・ケロッグ 1925 - 1929
財務長官 アンドリュー・メロン 1923 - 1929
陸軍長官 ジョン・ウィンゲイト・ウィークス 1923 - 1925
ドワイト・フィリー・デイヴィス 1925 - 1929
司法長官 ハリー・ドーガティ 1923 - 1924
ハーラン・ストーン 1924 - 1925
ジョン・サージェント 1925 - 1929
郵政長官 ハリー・ニュー 1923 - 1929
海軍長官 エドウィン・デンビ 1923 - 1924
カーティス・ウィルバー 1924 - 1929
内務長官 ヒューバート・ワーク 1923 - 1928
ロイ・ウエスト 1928 - 1929
農務長官 ヘンリー・キャントウェル・ウォレス 1923 - 1924
ハワード・メイソン・ゴア 1924 - 1925
ウィリアム・マリオン・ジャーディン 1925 - 1929
商務長官 ハーバート・フーヴァー 1923 - 1928
ウィリアム・ウィッティング 1928 - 1929
労働長官 ジェームズ・ディヴィス 1923 - 1929
彼は1924年に大統領に再選された。クーリッジはその任期中に新媒体のラジオを利用し、ラジオ史に残る演説を行った。彼の就任式はラジオで放送された最初の大統領就任式だった。1924年2月12日に、彼はラジオで政治演説を行った初の大統領になった。また、2月22日にホワイトハウスからそのようなスピーチを行った初の大統領になった。
クーリッジは景気循環に自然の経過をたどらせて自由市場に干渉することを試みなかった最後の大統領だった。彼の大統領職中にアメリカ合衆国は著しい経済成長を遂げ、その期間は「狂騒の20年代」と呼ばれた。クーリッジは税を低減させるだけでなく国債の縮小にも有能であった。彼は「必要以上の税を集めるのは合法的強盗である」との名言を残している。
いわゆる排日移民法も、クーリッジが大統領の時代に成立した。クーリッジ自身は「この法案は特に日本人に対する排斥をはらんでいるものであり、それについて遺憾に思う」という声明を出すなど、否定的な立場であったが、最終的には議会に屈して法案に署名をして成立させた。
引退と死 [編集]
1928年の大統領選ではクーリッジは再指名に対する候補でなく、「私は1928年の大統領選に出馬しない」との簡潔な決定を発表した。
大統領退任後に彼は超党派の鉄道委員会の議長および盲人協会の名誉会長職、ニューヨーク・ライフ保険会社の理事、アメリカ歴史学会の会長、アムハースト・カレッジの理事を務めた。クーリッジはメイン州ルーイストンのベイツ・カレッジから名誉法学博士号を受け取った。
クーリッジは1929年に自叙伝を出版し、1930年から1931年まで新聞にコラム『Calvin Coolidge Says,』を連載した。彼は1933年1月5日の午後12:45にマサチューセッツ州ノーザンプトンの自宅「ザ・ビーチ The Beeches,」で血栓症のため急死した。60歳没。1932年の大統領選挙でフーヴァーが再選に失敗したことに対してクーリッジは失望を語り、その後クーリッジの健康状態は急速に悪化した。死の直前に彼は旧友に「私はもはやこの時代にそぐわない」と打ち明けた。
クーリッジはバーモント州プリマスノッチのノッチ墓地に埋葬された。同所の一家の邸宅は博物館として整備されている。バーモント州は1972年7月4日、クーリッジの100歳の誕生日を記念して史跡センターを開設した。彼はまたバーモント州モントピリアのバーモント州議会ホールでその業績をたたえられている。
サイレント・カル [編集]
クーリッジは熟練した有能な演説家として知られていたが、私生活では大変無口で「サイレント・カル」という愛称で呼ばれた。夫人とその友人が食事の間に大統領に少なくとも3単語を言わせることができるかという賭けを行ったが、賭けのことをクーリッジに伝えた際、クーリッジは「君の負け(You lose.)」と2単語で返答した。
しかしながら、夕食に招かれた別の友人はこのように語っている。「私は、夕食のパートナーとして彼の沈黙に不平を言わなかった人の気が知れない」
1924年の大統領選挙の前に、下の息子のカルビン・ジュニアはホワイトハウスのテニスコートでテニスをしている間に天疱瘡に罹り、その後間もなく死亡した。息子の死後クーリッジはさらに内向的になり、人々は彼が息子の死から完全に立ち直ることができなかったことを知っていた。クーリッジは「彼(ジュニア)が死んだとき、大統領としての栄光は彼と共に去った」と語った。
目次 [非表示]
1 生い立ちと経歴
2 大統領職
2.1 内閣
3 引退と死
4 サイレント・カル
5 関連項目
6 外部リンク
生い立ちと経歴 [編集]
クーリッジは1872年7月4日バーモント州ウィンザー郡プリマスで、ジョン・カルビン・クーリッジシニアとビクトリア・ムーア夫妻の間に生まれた。クーリッジは独立記念日に生まれた唯一の大統領である。バーモント州のセントジョンズベリー・アカデミーで学んだ後マサチューセッツ州のアムハースト大学に入学、同大学を1895年に卒業し、そのときに名前から「ジョン」を外した。彼はノーザンプトンで弁護士となり、1899年に市議会議員になった。1900年から1902年まで市事務弁護士、1904年に法廷事務官、1907年から1908年まで下院議員を務めた。
クーリッジは1905年にグレース・アンナ・グッドヒューと結婚した。彼らの個性は正反対で、クーリッジは無口であったのに対し、グレースは話し好きであった。結婚後間もなくクーリッジは彼女に52足の穴が開いた靴下の詰まったバッグを手渡した。グレースは「あなたは靴下を繕わせるために結婚したの?」と尋ねたが、クーリッジは「違うよ。でもそれはすごく便利だ」と答えたという。夫妻の間には1906年に生まれたジョン・クーリッジと1908年に生まれたカルビン・ジュニアの二人の息子がいた。
クーリッジは1910年と1911年ノーザンプトンの市長に選ばれた。1912年から1915年まで上院議員、1914年と1915年に議長を務め、1916年から1918年まで州副知事および1919年から1920年まで州知事を務めた。1919年にボストン警察がストライキを行った時、クーリッジは州兵の出動を命じ全国的な注目を引いた。彼は後に労働組合の幹部、サミュエル・ゴンパーズに「誰にも、どこに於いても、いついかなるときも公の安全に対するストライキの権利はない」と言い放つなど、労働運動に敵対的であった。
大統領職 [編集]
クーリッジは1920年に共和党大統領候補の指名を求めたが、オハイオ州上院議員ウォレン・ハーディングに敗れた。人々は副大統領候補にウィスコンシン州の上院議員アーヴィン・レンルートの指名を求めたが、共和党はクーリッジを指名した。大統領選でハーディング=クーリッジは、民主党の大統領候補オハイオ州知事ジェイムズ・コックスと副大統領候補海軍次官フランクリン・ルーズベルトのペアとに打ち勝った。
副大統領として1921年3月4日から1923年8月3日まで在職し、ハーディング大統領の死に伴い1923年8月3日に大統領に昇任した。彼が大統領の死の知らせを得た時、家には電気も電話もなかった。クーリッジは1923年8月3日の午前2:47、自宅の応接室で公証人である父親の立ち会いの下、灯油ランプの灯りで就任宣誓を行った。クーリッジはワシントンD.C.に戻ると最高裁判所長官ウィリアム・ハワード・タフトの立ち会いで再度就任宣誓を行った。
内閣 [編集]
1924年の移民法に署名するクーリッジ
職名 氏名 任期
アメリカ合衆国大統領 カルビン・クーリッジ 1923 - 1929
副大統領 空席 1923 - 1925
チャールズ・G・ドーズ 1925 - 1929
国務長官 チャールズ・エヴァンズ・ヒューズ 1923 - 1925
フランク・ケロッグ 1925 - 1929
財務長官 アンドリュー・メロン 1923 - 1929
陸軍長官 ジョン・ウィンゲイト・ウィークス 1923 - 1925
ドワイト・フィリー・デイヴィス 1925 - 1929
司法長官 ハリー・ドーガティ 1923 - 1924
ハーラン・ストーン 1924 - 1925
ジョン・サージェント 1925 - 1929
郵政長官 ハリー・ニュー 1923 - 1929
海軍長官 エドウィン・デンビ 1923 - 1924
カーティス・ウィルバー 1924 - 1929
内務長官 ヒューバート・ワーク 1923 - 1928
ロイ・ウエスト 1928 - 1929
農務長官 ヘンリー・キャントウェル・ウォレス 1923 - 1924
ハワード・メイソン・ゴア 1924 - 1925
ウィリアム・マリオン・ジャーディン 1925 - 1929
商務長官 ハーバート・フーヴァー 1923 - 1928
ウィリアム・ウィッティング 1928 - 1929
労働長官 ジェームズ・ディヴィス 1923 - 1929
彼は1924年に大統領に再選された。クーリッジはその任期中に新媒体のラジオを利用し、ラジオ史に残る演説を行った。彼の就任式はラジオで放送された最初の大統領就任式だった。1924年2月12日に、彼はラジオで政治演説を行った初の大統領になった。また、2月22日にホワイトハウスからそのようなスピーチを行った初の大統領になった。
クーリッジは景気循環に自然の経過をたどらせて自由市場に干渉することを試みなかった最後の大統領だった。彼の大統領職中にアメリカ合衆国は著しい経済成長を遂げ、その期間は「狂騒の20年代」と呼ばれた。クーリッジは税を低減させるだけでなく国債の縮小にも有能であった。彼は「必要以上の税を集めるのは合法的強盗である」との名言を残している。
いわゆる排日移民法も、クーリッジが大統領の時代に成立した。クーリッジ自身は「この法案は特に日本人に対する排斥をはらんでいるものであり、それについて遺憾に思う」という声明を出すなど、否定的な立場であったが、最終的には議会に屈して法案に署名をして成立させた。
引退と死 [編集]
1928年の大統領選ではクーリッジは再指名に対する候補でなく、「私は1928年の大統領選に出馬しない」との簡潔な決定を発表した。
大統領退任後に彼は超党派の鉄道委員会の議長および盲人協会の名誉会長職、ニューヨーク・ライフ保険会社の理事、アメリカ歴史学会の会長、アムハースト・カレッジの理事を務めた。クーリッジはメイン州ルーイストンのベイツ・カレッジから名誉法学博士号を受け取った。
クーリッジは1929年に自叙伝を出版し、1930年から1931年まで新聞にコラム『Calvin Coolidge Says,』を連載した。彼は1933年1月5日の午後12:45にマサチューセッツ州ノーザンプトンの自宅「ザ・ビーチ The Beeches,」で血栓症のため急死した。60歳没。1932年の大統領選挙でフーヴァーが再選に失敗したことに対してクーリッジは失望を語り、その後クーリッジの健康状態は急速に悪化した。死の直前に彼は旧友に「私はもはやこの時代にそぐわない」と打ち明けた。
クーリッジはバーモント州プリマスノッチのノッチ墓地に埋葬された。同所の一家の邸宅は博物館として整備されている。バーモント州は1972年7月4日、クーリッジの100歳の誕生日を記念して史跡センターを開設した。彼はまたバーモント州モントピリアのバーモント州議会ホールでその業績をたたえられている。
サイレント・カル [編集]
クーリッジは熟練した有能な演説家として知られていたが、私生活では大変無口で「サイレント・カル」という愛称で呼ばれた。夫人とその友人が食事の間に大統領に少なくとも3単語を言わせることができるかという賭けを行ったが、賭けのことをクーリッジに伝えた際、クーリッジは「君の負け(You lose.)」と2単語で返答した。
しかしながら、夕食に招かれた別の友人はこのように語っている。「私は、夕食のパートナーとして彼の沈黙に不平を言わなかった人の気が知れない」
1924年の大統領選挙の前に、下の息子のカルビン・ジュニアはホワイトハウスのテニスコートでテニスをしている間に天疱瘡に罹り、その後間もなく死亡した。息子の死後クーリッジはさらに内向的になり、人々は彼が息子の死から完全に立ち直ることができなかったことを知っていた。クーリッジは「彼(ジュニア)が死んだとき、大統領としての栄光は彼と共に去った」と語った。
Posted by tokyokarasu2010 at 17:41│Comments(0)
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