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2010年12月31日

石澤常光

石澤 常光(いしざわ ときみつ、男性、1968年8月5日 - )は、日本のプロレスラー、総合格闘家。
新日本プロレスでプロレスデビュー後、海外遠征を経てケンドー・カシンとして覆面レスラーに転向。2000年以降は本名で総合格闘技にも参戦する。リング内外での破天荒なパフォーマンスとは裏腹に、レスリングに裏打ちされた確かなレスリング技術を持ち、ウィットに富んだ言動で多くのプロレスファンから注目を集める「問題児」。
入場テーマ曲:『Skywalk』
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 デビュー以前
1.2 マスクマンへの変身
1.3 奇行の始まり
1.4 総合格闘技への進出
1.5 全日本プロレス時代
1.6 全日本プロレス退団から失踪まで
1.7 大学院進学とIGF参戦
1.8 DREAMへの参戦
2 得意技
3 タイトル歴
4 人物
5 中西学との因縁
6 世界タッグベルト返還訴訟
7 戦績
7.1 総合格闘技
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク
来歴 [編集]

デビュー以前 [編集]
青森県南津軽郡常盤村(2005年3月の市町村合併により現在は藤崎町)出身。父は合併時まで同村の村長を務めた石澤善成である。4人兄弟の三男。レスリングの強豪校である光星学院高校を経て、早稲田大学人間科学部卒業。
レスリングで全日本学生選手権3連覇、全日本選手権優勝を果たし、新日本プロレスのアマチュアレスリング部門、闘魂クラブ(後に廃止)に入団する。根っからのプロレスファンで、学生時代にはしばしば練習を休んでプロレス観戦に興じていたという。その後、1992年4月に正式に新日本プロレスに正式入団し、同年9月、石沢常光("ざわ"は新字体)の名で、金本浩二戦でプロデビューした。
マスクマンへの変身 [編集]
1996年3月の第7回ヤングライオン杯にて優勝を果たした。この際、優勝賞金としてセレモニーで手渡された小切手型のボードを半分に折り、決勝で破った永田裕志に渡して健闘を称えるという、後のカシンの姿からは想像もできない振る舞いを見せている。
同年7月に欧州遠征へ出発。その際、現地のプロモーターだったオットー・ワンツの要請を受け、マスクマン「ケンドー・カ・シン」となる(後に"カシン"に改名)。なお、リングネームの根拠は不明。
奇行の始まり [編集]
1997年10月16日の新日本四日市興行の試合後、「オレは別にいつ辞めたっていいしね。全然プロレス界に必要な人間じゃないし。潰すか潰されるか、それだけだ」とインタビューで発言。
1999年3月17日、金本浩二を破ってIWGPジュニアヘビー級王座を獲得する(第34代)。しかし同王座のベルトがあるにもかかわらず、その後の試合ではなぜか自作の"ケンドー・カシンベルト"を巻いて入場し、本物のIWGPベルトはリング上で足蹴にするなど、その権威をことさらに冒涜してみせる。他にも選手権試合の認定状を破り捨てる、勝利後に授与されるトロフィーをその場で破壊するなどのパフォーマンスを披露。
1999年6月8日、ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア6に優勝。賞金として500万円を獲得したが、小切手ボードを実況レポーターの真鍋由アナに投げつけ、「お前これ、換金して寄付しとけ、ネコババするなよ!」と発言。「どこにですか!」と叫ぶ真鍋に「(当時紛争状態にあった)コソボだよ、コソボ!」と答えた。そして後日、単なるパフォーマンスではなく現実に賞金一部の100万円をコソボに寄付した。
総合格闘技への進出 [編集]
2000年8月、PRIDEのエグゼクティブ・プロデューサーを務めていたアントニオ猪木の命により、本名で「PRIDE.10」へ出場しハイアン・グレイシーと対戦するが、パンチの連打を浴びてKO負けを喫した。ハイアンとは翌年7月の「PRIDE.15」で再戦し、今度は逆にKOで勝利して雪辱を果たした。
2000年12月31日、INOKI BOM-BA-YEにおいて桜庭和志とプロレスルールで対決。プロレスでは極めて珍しいコーナーポスト上での腕固めで敗れた。試合後のインタビューで「この試合を振り返って如何ですか?」との問いに対し「お前が振り返れ」と答えた。両者は1995年の新日本対UWFインターナショナル全面対抗戦において、タッグマッチ、シングル戦でそれぞれ1回ずつ対戦しており、ともにカシン(当時は"石沢")が勝利している。
2001年10月8日、東京ドーム大会での成瀬昌由とのIWGPジュニアヘビー級タイトルマッチにおいて、成瀬が『カシンではなく、石澤常光として来い』との再三の挑発どおり、カシンとしてコールされるも、素顔の石澤でオープンフィンガーグローブをつけて花道に登場し、場内を騒然とさせる。試合は開始直後の成瀬のラッシュの後、成瀬はボディスラムをかけようとしたが、その腕に飛びつき逆十字を決め、わずか26秒でタップアウト勝ちを収め、第41代王者となった。試合後にはマスクを被りベルトを持ってインタビューを受け、「このベルトは石澤からもらった」と発言した。同王座は翌年まで保持したが、新日本退団時に返上扱い(事実上の剥奪)となった。
2001年12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2001で正道会館の子安慎悟を相手に総合格闘技の試合を行う。この対戦は両者とも積極的な攻めが見られないまま引き分けに終わった。
全日本プロレス時代 [編集]
2002年2月、武藤敬司、小島聡らと共に新日本プロレスを退団し全日本プロレスに移籍する。入団会見ではスーツに身を包み、「過去を反省して生まれ変わります。もう認定証を破ったりとかはしませんので、パウチったりするのはやめてください」と発言。
全日本ではカズ・ハヤシらとともにジュニア戦線の主力選手として活躍する一方で、ZERO-ONEやみちのくプロレスなど、他団体にも頻繁に参戦。しかし、世界タッグ王座の封印を宣言したり、試合への無断欠場を繰り返したことなどを理由として、2004年7月1日付で解雇処分を受ける。
全日本プロレス退団から失踪まで [編集]
全日本退団後はリキプロなどにスポット参戦したのち渡米。新日本ロス道場でコーチとして後進の指導に当たりながら、アメリカのインディー団体、ROHに「ドラゴン・ソルジャーB(Bは「バカ」の意)」なるリングネームで参戦。アメリカのファンに通じるはずもない「ホーッ!」などの中西学の真似を披露。同団体ではジュニアヘビー級のトーナメントで優勝している。この時期、海外では他にヨーロッパのプロレス団体にもスポット参戦している。
2005年4月、長年に渡って犬猿の仲だった中西学と電撃和解を果たし、永田裕志と藤田和之も加えて「チーム・ジャパン(TJ)」を結成。さらにTJ内で中西とお揃いの迷彩コスチュームのタッグチーム「ワイルド・ソルジャーズ」も結成。これを機にヘビー級戦線にも本格参戦するようになり、同年夏のG1 CLIMAXに初出場を果たした。決勝トーナメント進出はならなかったが、予選リーグで川田利明に勝利を収めた。
2006年3月15日、総合格闘技大会「HERO'S」に急遽参戦。秋山成勲を相手に、約4年3か月ぶりに総合格闘技の試合を行うもギブアップ負け。同年10月9日に再度HERO'Sへ出場し、カーロス・ニュートンと対戦したが22秒でKO負け。ただし、石澤は「試合を止めるのが早い」と抗議した。さらに同年12月31日のK-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!では金泰泳と対戦するがハイキックでKO負けを喫した。この試合以降、石澤としてもカシンとしても試合をせず、ほぼ完全に消息を絶ったため、引退の声も強く囁かれた。事実、東京スポーツのコラムにおいて、「石澤はもう歳だろう」などと述べ、総合からの撤退を示唆している。
大学院進学とIGF参戦 [編集]
2007年12月20日、IGF有明コロシアム大会にて、直前に欠場となったブッカー・Tの代役として、カート・アングルを相手に、カシンとしての復帰を果たした。プロレスの試合としては実に2年2か月ぶりだが、まったくブランクを感じさせないファイトを見せた。この試合について、田中秀和は自身のブログで、カシンへのオファーがあったのは試合前日だったとする裏話を明かしている。しかし、東京スポーツの「INOKI日記」による記述では、数日前からオファーはしていた様子である。
2008年1月、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科(社会人大学院修士1年制)に合格。現役レスラーでの大学院進学はジャンボ鶴田以来2人目。カシンは「ビッグ・サカやドラゴン、ムトチャン、サイモン・ケリーら偉大な経営者に倣って、プロレス界のためにスポーツマネジメントを学びたい」と東京スポーツ紙上で抱負を語った。早大では平田竹男教授の指導を受けた[1]。
DREAMへの参戦 [編集]
2009年10月25日、DREAM初参戦となったDREAM.12で新日本プロレス時代の後輩柴田勝頼と対戦し、パウンドでTKO負けを喫した。
得意技 [編集]

軽量級のマスクマンには珍しく飛び技の類いはほとんど使用せず、多彩な関節技とヨーロッパ仕込みの丸め込み技を得意とする。
腕ひしぎ十字固め
カシンの代名詞的な技で様々なバリエーションが存在する。腕ひしぎ逆十字固めと実況されることがほとんど。
飛びつき式腕ひしぎ十字固め
正面から飛びついて極める。最もフィニッシュに多用された入り方である。
雪崩式飛びつき腕ひしぎ十字固め
コーナーポスト上に座らせた相手から一旦距離を置き、勢いを付けてポストを駆け上り飛びつき式を極める。関節技を雪崩式に応用したのは公開当初非常に希有な例であったが、フロントキックで迎撃されることも多い。
ビクトル式腕ひしぎ十字固め
相手の片腕を片手で掴み背後に回って肩口に飛び乗り前方回転して極める。
足取り式腕ひしぎ十字固め
片腕と同時に相手の片足を一緒に抱え込んで極める、膝十字固めとの複合関節技。相手をロープブレイクから遠ざける効果を併せ持つ。ビクトル式から派生する場合も多い。
巻き込み式腕ひしぎ十字固め(横入り式腕ひしぎ十字固め)
相手の片腕を掴みかがませ、腕をまたいで腹部に片方の踵を当てながら回転して極める。この技のモーションからスクールボーイに持っていくことが多い。
カチ上げ式エルボースマッシュ
カシンが試合を組み立てる上で非常に多用することが多い技。
フライング・ネックブリーカー・ドロップ
こちらもカシンが試合を組み立てる上で多用することが多い技。片手で仕掛けるのが特徴。タッグマッチでは味方に誤発することが多かった。ダイビング式も稀に使用。
カシン式タランチュラ(タランチュラ式首四の字/絞首刑)
相手に首四の字固めを仕掛けた状態で、トップロープまたはコーナポストに垂れ下がる反則技。
ローリング・クレイドル
この技からKVニーロックに移行うることも多かった。
KVニーロック
四の字に組んだ自分の脚に相手の片足を挟み、テコの応用で足首を極める関節技。KVは「カシン・ビクトリー」の略。素顔時代にはIVニーロック「石沢・ビクトリー」と呼ばれた。
KV固め
相手が逆エビ固めを仕掛けて来た際、自身の上半身を捻り前方回転エビ固めに移行する丸め込み技。
長滞空式ブレーンバスター
ほとんどはこの技を掛けるフリをしてトップロープに相手の腹部を打ち付ける。一時期垂直落下式も見せていた。
旋回式垂直落下ブレーンバスター
望月成晃のツイスターらと同型。これも一時期見せていたがあまり使用しなくなった。
低空ブレーンバスター
低い位置から放つブレーンバスター。この技から腕十字に移行するパターンを見せている。
一本背負い
こちらも主に腕十字の繋ぎ技として使用。自身が両膝を付きながら仕掛けることが多かった。
ファイヤーマンズキャリー
レスリングをバックボーンに持つレスラーらしく使用頻度は高い。
変形カンパーナ
グラウンド状態で極める変形。ここからクラッチを解いて、キャメルクラッチに移行する連携をよく使用する。
前三角絞め
凶器攻撃
イスなどの他に、リング下に隠しておいたジュラルミンケースが代表的。
反則技
握手を誘っておいての急所攻撃やロープブレイクを無視するなど。
変形フィッシャーマンズバスター
ゴー・トゥー・ヘル・ボトム
レッグロックスープレックス・ホールド
チキンウィング・パイルドライバー
クレイジーボム
クロスアーム・スープレックス・ホールド
リバースデスバレーボム
地獄突き
主に全日本時代にブッチャーとタッグを組んでいた時に使用していた。
タイトル歴 [編集]

新日本プロレス
IWGPジュニアヘビー級王座(第34代、41代)
IWGPジュニアタッグ王座(第2代、パートナーはドクトル・ワグナー・ジュニア)
全日本プロレス
世界ジュニアヘビー級王座(第20代)
世界タッグ王座(第50代、パートナーは永田裕志)
その他
CWA世界ジュニア
EWP インターコンチネンタル
人物 [編集]

PRIDE.15でハイアンに勝利した直後、コメントを求めて控え室に詰め掛けたテレビクルーに対し、マスクを被った上で「石澤はもう帰ったからオレが代わりに来た。」と述べるなど、「石澤」と「カシン」の使い分けを厳密に行っている。
出身地の旧常盤村は津軽地方にあるが、高校は南部地方の八戸市にある光星学院高校に進んだ。同県内だが距離的には離れており、また両地方間には藩政時代から続く軋轢が今も残っているが、レスリングに打ち込むために、同校への進学を強く志願した。
ブログなどを開設して自身の試合スケジュールやメッセージを自己発信するレスラーも多い時代にあって、メディアへの露出を極限まで避けている。石澤としてのプライベートは本名、生年月日、出身地など以外は一切公表していない。カシンとして自身の情報をアナウンスするのは、東京スポーツ誌上の人生相談コラム(不定期)のみである。
自身のマスクのバリエーションも非常に豊富で、近年では試合の度にマスクを変える。それらマスクおよびコスチュームはカシンと昵懇であるOJISANスポーツが製作している。また、マスクに対戦相手への皮肉や揶揄のメッセージを織り込むこともある(藤波辰爾に対して「コンニャク」など)。
実家は現在も藤崎町で養鶏場(トキワ養鶏)を営んでいる。2008年10月には安田忠夫が同養鶏場への就職を志願し採用されたことが話題となった[2]。
中西学との因縁 [編集]

同期の中西学とはある時は「犬猿の仲」、ある時は「親友」と言って憚らない。新日本時代、試合での中西との絡みの有無に関係なく、インタビューで訊かれてもいない中西の話をし始め、ひたすらネタとして弄り倒すこともしばしばだった。中西が「P4メッセージ」なるものを発信すると、自らも「Problem360°」(当時の中西の入場曲「No Problem」に由来、360度どこからでもかかってこいという意味)というメッセージを発信、自身の入場曲の出だしに「Problem」というフレーズを挿入し、現在に至るまで使用している。
新日本離脱後も総合格闘技での「決着戦」をマスコミを通じて申し入れたり、中西が受諾もしていないのに「カシン対中西」戦をイラストでうたったTシャツを自作し、プロレスと総合の試合で入場時に着用するなど、「中西弄り」は約10年余に及んだ。
中西と仲が良いとされた成瀬昌由も「被害」を受け、成瀬が長い巡業から自宅に帰ると、留守電がカシンからのメッセージ(ほとんどが中西への悪口)で埋め尽くされていたという。
中西本人が新日本プロレスへの入門当時を述懐したインタビューによると、「雑用をしなければいけない日に遅刻(中西はレスリングオリンピック出場者として特待生扱いを受けており、寮生活ではなかった)し、生真面目な石澤が激怒した」ことから、以後の因縁が生じたとのこと。
世界タッグベルト返還訴訟 [編集]

2005年8月2日、全日本プロレスが同団体の所有する世界タッグ王座のベルトの返還に応じないとして、前月に解雇したカシンに対し、ベルトの返還を求める民事訴訟を東京地裁に起こした。
タッグパートナーの永田は王座剥奪時に全日本側の要請に応じてベルトを返還しているため、提訴の対象となっていない。剥奪後、全日本は王座決定戦を行い、太陽ケア、ジャマール組を正式な王者として認め、永田が返還した2本のベルトのみで王座戦を行っていた。
カシンは「王者になればベルトはもらえると思っていた。すべてはベルトを欲しがった永田君が原因。私は踏み台男の踏み台にされました」などといつものカシン節で応酬した。
さらに、同じTJ内に一緒にベルトを獲った永田がいるにもかかわらず、「王座は永田から中西に譲渡された」と一方的に宣言し、中西をパートナーとして2005年10月8日の新日本・東京ドーム大会でのチャーリー・ハース、マーク・ジンドラック組との試合を、「世界タッグ王座の初防衛戦」として強行する構えも見せたが、結局はカシンが2本のベルトを肩にかけて入場するに留まった。同試合の入場では「被告人、ケンドー・カシン」とのコールを受け、両手に手錠をはめて花道を歩くというパフォーマンスを行った。
初公判は同年10月5日に行われ、全日本側は早期和解を求めたが、カシン側は「ベルト獲得後に全日本に試合を組んでもらえなかったことが原因」とし、あくまでもリング上での決着を求めたため物別れに終わった。この日の公判において、全日本とカシンとの間にもともと選手契約自体が結ばれていなかったことなどが明らかとなり、全日本の選手管理の杜撰さを露呈する結果ともなった。その後しばらくの間、石澤ないしはカシンとして試合をする際には「武藤久恵対ケンドー・カシン裁判Tシャツ」を着用していた。なお、武藤久恵とは武藤敬司夫人で、全日本を取り仕切っていると言われる。
前代未聞の「ベルト裁判」の行方に世間の注目が集まったが、「ケンドー・カシンとして訴えられたのだから、マスク着用が認められない限り、(石澤の姿では)法廷に出ない」などと強弁するカシンの言動に弁護人が呆れ、弁護を辞したことで事態は一変。2006年4月末、2本のベルトが全日本の事務所に送料着払いで送付されたことで一応の解決をみたようである。その後、全日本はカシンが占有していたベルトを加え、従前通り4本のベルトでの選手権試合を行っているが、現在に至るまで、この事件については一切のコメントをしていない。  


Posted by tokyokarasu2010 at 00:22Comments(0)

2010年12月31日

健心

健心(けんしん)はフリーのプロレスラー。神奈川県藤沢市出身。本名:大森政弘。プロフィール上は1966年8月4日生、福岡県福岡市出身を自称しているが、これは佐々木健介と同一のものを後述の理由により名乗っているため。
IWA湘南でプロレスデビュー。佐々木健介に顔がそっくりであった事から、健介を模したギミック、藤沢一生として活動。ちなみに自由が丘で偶然坂口征二と出会い、本物に間違えられた事がある。その後、健介がDDTに参戦し、念願のタッグを実現する。その後、身も心も佐々木健介である事から、健介から健心のリングネームを貰う。また、DDTでは泉州力(長州力へのオマージュ)と組み、師弟コンビと称して出場していた。健介ファミリーと交流があるが、正式なファミリー入りはしていない(一応、弟分)。 近年はDDTプロレスリングでの活動はしておらず他団体修行中となっていて、2007年の契約更改にて自由契約となる。 どことなく秋山準にも顔が似ている。
ボルケーノ・イラプションや、サソリ固め、太鼓の乱れ打ちなど、健介の使用する技を得意とする。
2007年10月21日 茅ヶ崎青果市場にて10周年記念興行【健心☆祭り】を開催。  


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2010年12月31日

蛇影

蛇影(へびかげ)は、日本のプロレスラー。身長体重不明。
経歴 [編集]

本来のリングネームは黒影。2000年、第1回タッグリーグにポイズン澤田BLACKとタッグを組んで参戦したものの全敗。悔しさの余り蛇神に魂を売って蛇人間化したポイズン澤田JULIEによって強引に「より強く、よりセクシーに」蛇人間に改造され蛇影となった。以来、蛇界転生のNo.2として活躍し、呪文も会得。さらには2002年4月にコニカマン2号を自ら改造しハブ影として仲間に引き入れた。 しかし、ハブ影はリーダーであるポイズン澤田JULIEに従わず蛇界転生に不協和音が起こる。それはポイズン澤田JULIEと蛇影との争いに発展。やがて蛇神の知るところとなり、蛇神は敗者石化マッチを命じた。決戦は2002年12月、敗れたのは蛇影だったがポイズン澤田JULIEは自らが責任を取ることを望み石化され、同時に蛇影とハブ影は蛇界を追放された。
蛇界を追放された蛇影は、記憶を失い黒影の姿に戻って新宿歌舞伎町で倒れているところを高木三四郎によって発見されたが、蛇人間時代に傷めた肩を悪化させ再び姿を消した。その後、1度だけユニオンプロレスのリングに上がっている。
なお、旧蛇界転生消滅後、タイムマシンによって2回過去から現代のDDTに招聘されている。1回目は2004年8月の蛇光興行、2回目は2006年1月の後楽園ホール大会。この時、タイムマシンが壊れ、蛇影だけは過去に戻る事が出来たがポイズン澤田JULIEは過去に戻れず、現在もDDTで新生蛇界転生として闘い続けている。
2009年のDDT両国ピーターパン 〜大人になんてなれないよ〜では新日本プロレス蝶野正洋と戦うポイズン澤田JULIEのセコンドとしてナオミ・スーザンとともに久々に姿を見せる。
得意技 [編集]

キャトルイミテーション
鼻血出すなよ!
スネークシャドウ
バズソーキック
ムーンサルトプレス  


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2010年12月31日

黒影

黒影(くろかげ、1968年1月5日 - )は、フリーのヒールプロレスラー。本名非公開。影をモチーフとした覆面レスラーである。"剛腕"というニックネームを持つ。大阪府出身。
得意技
ハンマーパンチ、武者狩り(STO)、アームロック、オクラホマ・スタンピード
趣味・特技
料理研究、任侠道研究
イメージカラー

来歴 [編集]

柴田勝久が主催する、柴田道場にて修行。
2001年7月15日、地元の大阪にて、「イス大王」の異名をとった栗栖正伸の指導を受け、プロデビューする。デビュー戦は、大阪苅田土地改良記念会館における、対 川畑顕(TEAM-KURISU)。
2004年5月よりプロレスリング華☆激に参戦する。当初は正規軍だった。
2005年8月、ブラックジャスティスの一員となり、ヒールに転向する。
2006年、獣神サンダー・ライガーからの呼びかけでC.T.Uの福岡支部員になる。同年5月の新日本プロレス福岡大会に、C.T.Uのメンバーとしてディアブロと共に出場した。
2006年6月、KAZEの持つ、博多ライトヘビー級王座に挑戦。敗れはしたものの、健闘する。
2009年1月11日、華☆激を退団。
その他 [編集]

剛腕のニックネームが表すように、馬鹿力である。KAZEと一緒に天神の「ラウンド1」でボウリングをした時、持ち前の馬鹿力で壁を突っ切って、岩田屋までボールが貫通したことがある。
「黒影」「非理法権天」と書かれたコスチュームを穿いている。
ブラックジャスティスの中ではマイクを担当していた。
毒霧攻撃をする。
武者狩りでアステカからフォールを奪ったことがある。
KAZEとはライバル関係だったが、いつの間にか関係が消滅した。  


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2010年12月29日

YAMATO (プロレスラー)

YAMATO(やまと、男性、1981年9月10日 - )は、日本のプロレスラー。本名は小野寺 正人(おのでら まさと)。岩手県一関市出身。DRAGON GATE所属。
目次 [非表示]
1 経歴
2 得意技
3 タイトル歴
4 その他
5 出演
5.1 Web
6 関連項目
7 外部リンク
経歴 [編集]

和術慧舟會を経てDRAGON GATEに入門。小野寺大和のリングネームで2006年7月29日京都KBSホールにて対神田裕之でデビュー。デビュー直後にFinal M2Kに見習いとして加入し、オープン・ザ・トライアングル・ゲートのリーグ戦に出場する。総合格闘技を経験しており、キレのあるグランドテクニックと綺麗なブリッジを見せる。
2007年にはNEX-1 トーナメントで優勝を果たし、試合後にはアメリカへ修行に行くと宣言。その後5月7日のSITE-KOBE大会にて日本に帰国。同時にリングネームもYAMATOに変更した。鷹木信悟率いるNEW HAZARDに所属する。
日本に復帰したあとは順調だったが、2007年6月に左肩を脱臼し長期欠場を余儀なくされた。同年9月14日の後楽園大会で、B×Bハルクと共に10月12日の後楽園大会での復帰を宣言。それに合わせて9月からハルクとの海外遠征で一足早く復帰した。
2008年から、斎藤了、CIMA、さらには同門のハルクに対しても、執拗に敵意を燃やすようになる。
2月3日にオープン・ザ・ドリームゲート選手権試合に敗北したGammaと謎の握手をする。
3月7日、NEW HAZARD対マッスル・アウトローズの大江戸式カウントダウン・イリミネーションマッチ後(試合はNEW HAZARDの勝利)にDRAGON GATE復帰を表明した、谷嵜なおきに対して真っ先に異を唱え、3月20日にシングルマッチで対決するが、敗北。しかし、和解し、共闘していくことになる。
4月13日、仲間割れしていたハルクとシングルマッチで激突し、試合は神田裕之の乱入があったものの勝利。試合後、ハルクと和解し握手をする。
4月17日、共闘していた谷嵜なおきとのタッグでGamma&堀口元気と対戦するが、谷嵜を裏切りマッスル・アウトローズに加入、ハルクの髪を切り、サイバー・コングのマスクを剥ぐ暴挙に出た。そして5月14日に鷹木信悟、サイバー・コングも合流し、REAL HAZARDでの活動を開始。同日、自身初のタイトルとなるオープン・ザ・トライアングル・ゲート王座を獲得(パートナーは鷹木信悟、Gamma)。
6月6日、オープン・ザ・トライアングル・ゲート王座選手権試合にて、望月成晃、ドン・フジイ、マグニチュード岸和田組と対戦、望月から勝利を奪い初防衛。その望月とは6月12日の後楽園大会で今度はシングルマッチを行うが敗退。
6月28日、戸澤塾の新井健一郎、岩佐拓、忍組に敗れ、トライアングルゲート防衛に失敗するが、7月12日にはGamma、神田をパートナーに再びトライアングルゲートを獲得し、7月27日には、4wayマッチでの防衛に成功した。
8月にはSummer Adventure Tag Leagueでサイバーをパートナーに出場し、新井&岩佐組に敗北した以外は全勝し、リーグ戦首位で決勝トーナメントに勝ち上がったものの、準決勝でドラゴン・キッド&鷹木組に敗れる。また、この頃からフジイとの確執が始まる。
9月20日、ドン・フジイとノーピープルマッチで激突するが敗北。
10月5日、サイバー・コングをパートナーに土井成樹、吉野正人の持つオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座に挑戦し、勝利。第5代王者となった。
2009年1月18日、REAL HAZARDからGammaを追放し、新たなリーダーとなった。1月23日にはかつての同僚、鷹木信悟とノーロープマッチを行い、勝利。
2009年6月、新日本プロレス主催のベスト・オブ・ザ・スーパージュニアへ参戦。獣神サンダー・ライガー(3日)、金本浩二(11日)に勝利したが、リーグ戦2勝4敗で予選で敗退。
新日本参戦前からGamma、ダークサイドハルク、フジイ、鷹木と立て続けにシングルマッチで敗れた上にREAL HAZARDの他のメンバーと誤爆を繰り返すなど不和が続き、鷹木戦後の「思い残すことはもうない」などの発言やスーパージュニア終了後も欠場を繰り返していたことから週刊誌などで退団が囁かれていたが、6月26日の関西テレビなんでもアリーナ大会に登場しREAL HAZARD脱退と鷹木との共闘=KAMIKAZE加入を表明(欠場は膝の負傷が原因)。7月19日にその鷹木と組んでオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座に挑戦するも敗れた。 Summer Adventure Tag Leagueには鷹木信悟と組んで出場し優勝を果たし、前王者組にリベンジし斎藤了をギャラリアで仕留め、第8代王者組になった。
2010年4月、両国国技館での土井成樹との試合で土井の必殺技マスキュラーボムを喰らいながらも耐え凌ぎ、最後はギャラリアで勝利を納めオープン・ザ・ドリームゲート王座を奪取。自身初のシングル王座を獲得した。
得意技 [編集]

バックボーンが総合格闘技のため、DRAGON GATEでは珍しいグラウンド技が主である。
ギャラリア
リバースのブレーンバスターの状態から持ち上げての開脚式ツームストーン・パイルドライバー。TAKAみちのくのみちのくドライバーβと同型であり代表的なフィニッシュ技。
CBV(Cross Bone Vanguard)
うつぶせの相手を、サイドから片羽締めの要領で、片腕を巻き込んで締め上げるフェイスロック。TAKAみちのくのジャストフェイスロックのように、相手の体を強引にのけぞらせつつきめる。技名は機動戦士ガンダムF91に登場する敵組織の名前から。
胴締めスリーパーホールド
YAMATOの総合格闘技のスキルが反映された技。大一番で奥の手として使用され、多くの選手を立て続けにこの技で絞め落とした。
ヒダルゴ
相手を斜めにおんぶするような感じで担ぎ、そのまま旋回して放つ変形フェイスバスター。技名の由来は明らかになっていないが、アメリカのニューメキシコ州にヒダルゴという郡が存在しているため、アメリカ遠征の経験があるYAMATOが、ここから名付けたと思われる。最近は全く使用しない。
エルボー・スマッシュ
左右連続でたたみかけるパターンを好んで使用する。
垂直落下式ブレーンバスター
ジャーマン・スープレックス
デスバレーボム
タイガードライバー
スピアー
タイトル歴 [編集]

オープン・ザ・ドリームゲート王座 第11代
オープン・ザ・トライアングル・ゲート王座 第18代(パートナーは鷹木信悟、Gamma)、第20代(パートナーは神田裕之、Gamma)
オープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座 第5代(パートナーはサイバー・コング)、第8代(パートナーは鷹木信悟)
その他 [編集]

アメリカ修行から帰国後、デビューまで着用していた『下克上』の文字が入った青のタイツから赤色のショートタイツに変更。日焼けしてビルドアップした肉体、あごひげを蓄える等、ワイルドなイメージになっている。
調理師免許を所有しており、道場で作るちゃんこ鍋には定評がある。
鷹木信悟からは『YAMAMOTO』と呼ばれている。由来は山本五十六から。
ヒールターンするまではNEW HAZARDのメンバーの中でも一番存在感が薄く、地味な正統派のプロレスラーという感じだったが、CIMAへ喧嘩を売り出した頃から豹変が始まり、マッスル・アウトローズ加入によって、その狂気染みた試合内容や行動によって、一部では「根っからヒールだったのではないか?」との声も上がっている。常に薄笑いを浮かべ、危険な技を受けた後にすぐ立ち上がって指を「チッチッ」と振る、チョップの打ち合いになると「気持ちいい!」と叫んで挑発するなど、不気味さが増している。時には観客にも襲い掛かる場合がある。ヒールとしてのキャラを確立したが一方ではツインゲート戴冠やCIMA、鷹木から勝ち星を上げる等の実績も作り、現在のDRAGON GATEで最も勢いのある選手の一人といえる。また、REAL HAZARDのリーダーとなった後はこれらのギミックは封印しつつある。
DRAGON GATEでは珍しくシュートタイツを着用している。また、入場時には前垂れを着けているが試合中に外している。
ガンダム、AKB48が好きである。
昔ファンだった選手が他団体の選手との頂上決戦に負けた時に、ショックのあまり裸足のまま夜の町に飛び出したことがある。
実家はリズム食堂  


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2010年12月29日

望月成晃

望月 成晃(もちづき まさあき、1970年1月17日 - )は、日本の男性プロレスラー。東京都江東区出身。足立高等学校(現:足立学園高等学校)卒業。
得意の空手技を駆使したファイトで、レスラー人生で初めて所属しているDRAGON GATEのトップレスラーとして活躍中。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 タイトル歴
4 入場曲
5 エピソード
6 出演
6.1 Web
7 外部リンク
来歴 [編集]

1994年1月21日、WAR・後楽園ホールでデビュー。対戦相手は後にタズとなる、ピート・タンジーロであった。この頃はまだ、岡村隆志・TARUとともに武輝道場の一員であった。その後もフリーランスとして格闘探偵団バトラーツ、みちのくプロレスなど10以上の団体で活動していた。
メキシコへ渡航せずフリーの身分のまま闘龍門参戦。しばらくは正規軍の一員として空手着で戦っていた。
団体での本格的なブレイクは2期生望月享(現:横須賀享)、神田裕之(引退、レフェリー兼本部長、2006年復帰)と結成したヒールユニット、「不完全決着推進委員会」なる組織を掲げた(会長は望月)「初代M2K」時代。後に河野圭一(元武輝道場。後チョコフレークK-ICHI)、ダークネス・ドラゴン(現K-ness.)、堀口元気が合流する。入場曲の「G.W.D」(thee michelle gun elephant)が会場に鳴り響く中、スカジャンを身にまとい、キックボードで入場、パウダー、ブルーボックスなどの凶器攻撃、乱入してバッドエンド、ノーコンテスト決着などその他反則行為などその後同団体のヒール行為を作り上げた。
EL NUMERO UNO 2001開催時には「両者リングアウト推進委員会」(略して両リン)なるものを掲げ、リーグ戦を全て黒星にするという行為にも出た(望月享だけうっかり勝ってしまいメンバー全員による両リンは失敗)。しかしEL NUMERO UNO 決勝トーナメントに敗者復活枠があり、それを勝ち抜いて決勝トーナメントに進出。決勝でも「体力回復を図る為」(本人談)両リンをきめ、再試合になったところを優勝した。表彰式では「今まで色んな団体を渡り歩いてきたけど、この団体が一番弱い」という発言を残し、CIMAとマグナムTOKYOを激昂させた。ちなみにEL NUMERO UNO 2002ではリーグ戦を普通に戦って全敗したが、やはり敗者復活枠から勝ち上がり、準優勝している。
2001年12月10日、CIMAとのカベジェラ・コントラ・カベジェラ・ランバージャックマッチにおいて、両リンを失敗し敗退。それを機に「完全決着推進」というスローガンを掲げるも、M2Kメンバーの反感を買い一匹狼になる。「負けたけど、きもちいいなあ!」などと「いい人発言」をするようになり、やがて正規軍入り。悪を蹴散らす正義のキャラクターとなるが、本人の中では常に外様意識からの疎外感があったようだ。2002年12月25日後楽園ホールでの大鷲透戦後、「この団体に正規軍はいらない」という発言を残して正規軍を解散。神田裕之の許可を取り、M2Kを再結成(通称新M2K、メンバーは新井健一郎、ドラゴン・キッド、セカンド土井、三島来夢)するも大きな成果はあげられなかった。 2003年、望月は不甲斐ない試合を続け、M2Kのメンバーに不信感を抱かせる。そしてリーダーを賭けた試合を新井健一郎と行い、敗退。「原点回帰」というキーワードを残して、M2Kを去った。原点回帰の内容は「初代M2Kの時にやり残したヒールの道を究める」というもので、「はぐれ軍団(仮)」と合流。「不甲斐ない試合を続けていたのはわざと」と暴露。「悪冠一色」というユニット名を付けヒールターンを図るが、「リーダーを作らない」というメンバーの方針に馴染めず、結局追放される。追放直後にK-ness.、新井健一郎らに頭を下げてベビーターン。「ファイナルM2K」のリーダーとして活動。OPEN THE DREAM GATE(ODG)二代目チャンピオンとなった。
2006年にバトラーツ参戦時にタッグを組んでいた稔のパートナーとして、武輝道場時代以来の新日本プロレス参戦が決定。それに先駆けて稔が新日本のリングで三角蹴り・ツイスターを、望月がDRAGON GATEのリングでミノルスペシャルを披露した。WAR FINALではIJ王座の防衛戦でセミ・ファイナルに登場。「これできっちり防衛してIJを封印する」と意気込み、かつての胴着で戦うもペンタゴンブラックに破れ王座陥落。試合後は胴着を脱ぎ捨て「メキシコでもどこでも追いかけていって、絶対に取り返す」と決意を語った。2006年11月23日に行われたタイトルマッチで勝利し王座を奪還、きっちりと有言を実行した。その後、WAR FINALでのタイトルマッチ前のコメント通り、IJシングルのベルトを封印。その後、マグナムTOKYO、ドン・フジイ、神田裕之とともにルネッサンスを結成。ファイナルM2Kのリーダーを横須賀享に譲り、自らを「御大」と称してファイナルM2Kから一歩引いた形で活動した。
2006年12月31日に開催された「インディー・サミット」に参戦。みちのくプロレスのフジタ"Jr"ハヤトとバトラーツルールで対戦し勝利。2007年4月13日IJタッグ(王者邪道・外道組)に神田裕之と組み挑戦、4月17日ODG王者獣神サンダー・ライガーに挑戦するが共に敗北。2007年8月2日、ZERO1-MAXに初参戦し、「天下一Jr.」への参戦を表明。また、因縁深い元悪冠一色の菅原拓也とタッグながら2年振りに対戦。9月からの「天下一Jr.」では決勝で田中将斗に敗北するも、ZERO1Jr.のトップ2である藤田ミノル、日高郁人を連破した。
2008年1月23日、ZERO1-MAX後楽園大会に参戦。インターナショナルジュニアヘビー級選手権試合で日高を破り、ベルトを奪取した。
大阪タッグフェスティバル(大阪プロレス)でドン・フジイと組み優勝、大阪タッグ王座を奪取した。
得意技 [編集]

蹴り技など空手技を中心に試合を組み立てる。いくつかの技は尊敬する高田延彦に由来する。
三角蹴り
コーナーを駆け上がり、振り向きざまに体を捻らせながら後ろを向いている相手の延髄を蹴る技。この技がフィニッシュになったこともあるが、主にツイスターなどの決め技に繋ぐための技である。正式名称は「三角飛び延髄斬り」らしい。
二角蹴り
セカンドロープに飛び移り、エプロンに立つ相手に向かってロープの反動を利用して蹴る技。シングルで使われることは非常に少なく、タッグ戦などでエプロンにいる相手を蹴散らすときに使われる。
一角蹴り
コーナーのトップロープとセカンドロープの間に横に寝かせた状態で対角のコーナーから突進し、腹に膝蹴りをあびせる。
ツイスター
ブレーンバスターの体勢に抱え上げ、そのまま水平方向に体を一回転させてから垂直落下式に落とす技。フィニッシュ技として長く愛用している。使用にあたりリッキー・フジに電話で使用許可を得たところ、快くOKしてくれたと言う。
ツイスター2
ツイスター同様ブレーンバスターの体勢に抱え上げた後、旋回しつつみちのくドライバーIIの姿勢に持ち変えて落とす技。
最強ハイキック
渾身の力を込めて放つ左ハイキック。
真・最強ハイキック
最強ハイキックで仕留めきれなかった相手に繰り出す必殺の右ハイキック。相手は必ず前のめりに倒れ込む危険な技。
わがままな膝小僧
高田延彦が愛用していた右、左、右のキックコンボ。
最強逆十字
望月の使う腕ひしぎ逆十字。本人の尊敬する高田延彦の逆十字をイメージしているらしい。
ドラゴン・スープレックス・ホールド
とっておきの奥の手。本人は「さりげに必殺技」と言っている。
マサ・スペシャル
イリュージョンからの飛び付き式腕ひしぎ逆十字固め。
スーパーケンカキック
ランニング式ジャンピングケンカキック。その威力に相手が一回転してしまうこともある。
イリュージョン
最強ハイキックが避けられた時、その勢いのまま繰り出す頭部への右後ろ回し蹴り。これが命中すると真・最強ハイキックが待っている。
武輝固め
相手がうつ伏せ状態で片腕をハンマーロックに固め、足を固定し、さらにもう片方の腕をステップオーバー・アームブリーカーの形で極める技。同じく武輝道場出身の川畑憲昭も使用していた。
復帰クラッチ
外道クラッチと全く同じ技。右肩負傷からの復帰戦で使用したことから、この名称になった。
サッカーボールキック
尻餅をついている相手の背中にサッカーボールを蹴るように思い切り蹴りつける技。空手出身のため、音が強烈で痛みが伝わりやすい。バリエーションとして相手にエプロンにリングに背を向けて座らせ、勢いをつけたところで蹴るサッカーボール・キックも披露している。
トペ・マサアキ
大一番で使用する技。トップロープに触れることなく飛び越え、場外の相手にプランチャをしかける。
タイトル歴 [編集]

DRAGON GATE
オープン・ザ・ドリームゲート王座…第2代王者(防衛4回)
オープン・ザ・トライアングル・ゲート王座(パートナーはドン・フジイ・K-ness.)
オープン・ザ・お笑いゲート王座
IJタッグ王座(パートナーはドン・フジイ)
IJ王座…第12代王者(2006年11月23日、タイトル獲得後に封印したが、2010年4月19日に開催された『天龍プロジェクト』にて王座が復活される事になり、3WAY王座決定戦を制し、再び王座に就いている)
KING OF GATE 2006優勝
インターナショナルジュニアヘビー級王座
WAR
IJ王座…第10代王者(防衛5回)
IJタッグ王座…第5代王者(パートナーは超電戦士バトレンジャー)
闘龍門JAPAN
英連邦ジュニアヘビー級王座
EL NUMERO UNO 2001 優勝
EL NUMERO UNO 2002 準優勝
ZERO1-MAX
インターナショナルジュニアヘビー級王座
大阪プロレス
大阪プロレスタッグ王座(第25代 パートナーはドン・フジイ)
入場曲 [編集]

傷だらけの栄光/望月成晃(アニメ「あしたのジョー2」主題歌)
当初はおぼたけしのオリジナルバージョンを使用していたが、DRAGON GATE発足以降は自身がボーカルを務めたバージョンを使用している。
G.W.D / thee michelle gun elephant(M2K時)
FINAL STAGE
エピソード [編集]

人を驚かせることが好きらしく、なにかとサプライズ予告をする。その例としては「完全決着推進」のスローガンや悪冠一色入り等、度々ファンや関係者の度肝を抜くようなことをやる。また、ブログなどで他の選手の正体に関することを暴露することもある。
プロレスリング・ノアの橋誠と顔が似ていることを以前から意識していたが、一切接点が無かった。2005年、天龍源一郎のセコンドとしてノア大会に初めて出向き、対面。望月自身も「やっぱり似てる」と感激していた。橋のパートナーである秋山準は、『こんな奴と顔が似てるなんて申し訳ない』と橋を無理矢理望月に向って土下座をさせた。2010年に望月が「生き別れの弟を連れてくる」と宣言し、ノアを退団した橋のDRAGON GATE参戦を発表、2月7日後楽園ホール大会で初めてタッグを組んだ、3月3日にはシングルマッチで対戦その後から橋に「兄貴」と呼ばれるようになった。
ファイト・スタイルは荒々しい蹴り技を繰り出すが、解説や試合後のマイクは比較的に冷静。現在は無所属という立場のためDRAGON GATE全体を客観的に静観し、その動向を窺いつつバランスを保っている。
美食家であり、料理の腕前もかなりある。特にチャーハン、ペペロンチーノ、ロールキャベツはプロ級らしい。しかしなぜか、ファーストフードが大好きである。
年々、コスチュームが短くなっていく(道着→ロングパンツ→ショートタイツ)  


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2010年12月29日

堀口元気

堀口 元気(ほりぐち げんき、1978年9月15日 - )は、日本のプロレスラー。DRAGON GATE所属。本名:堀口 博正(ほりぐち ひろまさ)。熊本県熊本市出身。熊本市立必由館高等学校卒業。ギミック上の弟はプロレスラーの堀口ひろみ(闘龍門所属)。実家は熊本で有名な居酒屋「○一」(まるいち)。
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1 経歴
2 名乗ったことのあるリングネーム
3 得意技
4 タイトル歴
5 決め台詞
6 入場曲
7 エピソード
8 関連項目
9 外部リンク
経歴 [編集]

闘龍門第2期生としてメキシコに渡った。デビュー戦は1998年10月17日、メキシコ・ナウカリでの対パラメディコス1号、2号、3号戦である(デビュー戦のタッグパートナーはSAITO、アルコン2000)。
日本逆上陸当初は未来忍者の衣装で登場。入場曲もリングネームの元ネタである「がんばれ元気」の主題歌だった。その後、サーファーキャラ路線を進み、入場時にサーフボードを持ってくるなどのパフォーマンスを見せる。しかしサーフボード窃盗未遂事件後、斎藤了との確執(後に斎藤のヒール転向時に育毛剤を贈られ和解)が生まれ、ヒールユニットM2K加入。そして悪役キャラに変更。
M2KからDo FIXERへとユニットが変わってからは、マグナムと共にベビーターン。髪の毛が薄いため、「HAGE(エイチ・エー・ジー・イー)コール」を背に受け日々、ファイトに励んでいる。髪の毛を賭けた試合に負け、坊主になる。その後は「BOZU」として活動するも、髪が伸びてきたら再び「HAGE」に戻る。試合中に技をかけられても仲間は助けに行かず、それぞれ楽器を持って観客と一緒に応援し、自力で脱出する。その後は「HAGE」コールと共に、斎藤了との「マラハ!」「イサッパ!」という掛け声を流行らせる。この頃はコミカルな側面が目立つことが多かったが、吉野正人やドラゴン・キッドにも退けを取らないスピードファイトを得意とし、また特にタッグ戦での動きから「名参謀」と呼ばれるなど試合巧者ぶりにも定評がある。天龍源一郎が闘龍門に初参戦した際に対戦相手に抜擢されるなど清々しいまでの受けの評価は極めて高い。ロープワークの走り方に特徴があり、手を必要以上に振り上げてダッシュする。
2006年末に斎藤了との確執が発生。一度は和解の様相を見せながらも、2007年2月にリング上で斎藤了を裏切りマッスル・アウトローズに加入。再びヒールに転向した。青く長い付け毛をまとい、カラーコンタクトをはめ、不気味な様相を醸し出している。斎藤了、さらにはかつての盟友ドラゴン・キッドとも抗争し、3月25日にはマット・サイダルからオープン・ザ・ブレイブゲート王座を奪取する。そのまま永久王者になろうと画策するも、7月1日に行われた神田裕之との対戦に破れ王座陥落。ここ最近は戸澤塾の象徴であるボンタンや、アンソニー・W・森のコスチューム等を盗んでいる。オープン・ザ・ガンマゲートの実行委員長も務めた。
2008年5月14日、マッスル・アウトローズがNEW HAZARDと合体し、REAL HAZARDになったのに伴い、REAL HAZARD所属になる。
7月27日の神戸大会で1年半ぶりにオープン・ザ・ブレイブゲートを奪取した。
2009年12月、REAL HAZARDに加入した横須賀享、K-ness.に同調し、ファイトスタイルがベビーフェイス色が強くなる。しかし、REAL HAZARDの他のメンバーと衝突する。
2010年2月7日、REAL HAZARDを離脱、その後同じく離脱した横須賀享、K-ness.らと共闘するものかと思われたが、2月27日京都KBSホール大会にてWARRIORS-5入り。CIMAとは闘龍門・DRAGONGATEを通じて初の同じユニットのメンバーになる。
3月3日、後楽園ホールにてMC中に菅原拓也が乱入。そのまま試合となり敗れた上に、Kzyが何の躊躇もなく大事なエクステを切ってしまう。
名乗ったことのあるリングネーム [編集]

堀口元気(現在も使用中)
HAGE - アメリカで開催されたPWGトーナメント限定
得意技 [編集]

正統派のルチャ・ドールを扱うものの、堀口独特のフォームや技の形があるためどちらかといえば変則型である。
ビーチブレイク
ブル中野のブルズポセイドンやディック東郷のクーロンズゲートとほぼ同型の技。自らの頭を相手の股ぐらに入れ、そのまま相手を担ぎ上げ、尻餅をつくようにして背面越しに落とす。前述の2人との相違点は相手の足を交差させてロックする点である。技の形からして首付近を固定せずに落下させるため、相手が受身を取り損なうと頸椎損傷など首に甚大なダメージを与えてしまう。実際神田裕之を一度は引退に追い込んだ程危険であるため、一時は使用禁止にしようという動きもあった。
バックスライド・フロム・ヘヴン(元・神が宿る逆さ押さえ込み)
単なる逆さ押さえ込みではあるが、周囲の予想を裏切りこの技でマグナムTOKYO、望月成晃を破り、EL NUMERO UNO 2003準優勝に輝いたことから堀口の代名詞的な技となる。本人曰く、自身の意志と関係ない時に発生すると100パーセント決まるが、出そうと思って出すと決まらないらしい。その時は普通の逆さ押さえ込みになるらしい。理由は髪(神)が宿らないからとされている。
PWGトーナメント参加時から技名が「バックスライド・フロム・ヘブン」へ変更された。神が宿る逆さ押さえ込みとバックスライド・フロム・ヘヴンは別の技であると堀口本人はテレビで語っているが、実際はテレビ用のネタである可能性が高い(曰く「バックスライド・フロム・ヘヴンは押さえ込む時に小指が立っている」。冬木弘道がかつてのタッグパートナー川田利明のオリジナル技「ストレッチプラム」を使った際に放った言葉が元ネタのパロディ)。
ヒールターンに伴いバックスライド・フロム・ヘルに名称が変更された。相手と背中合わせになったところで後ろ蹴りにより金的攻撃をし、そのまま押さえ込むパターンが多い。
GHロック
初期の堀口の代表的なストレッチ技。相手の左足と首を極める。佐々木健介の得意技ストラングルホールドγに足のロックを加えた形。GHとは、ゲンキ・ホリグチの頭文字であり、断じてゲーハーの略ではない。
GHロック・海(かい)
GHロックに右足のロックも追加した技。
トペ・トビウオ
俗に言うトペ・コンヒーロ。ただ堀口のそれはフォームの美しさから定評がある。危険技のはずだが、堀口が使うと着地もしっかりと決まり、危なさを感じさせない。
トペ・モリモト
リング内で行うトペ。相手の名前を叫びながら放つため、成功率は低い。モリモトは森本レオの名前から拝借。森本レオがゲストコメンテーターで来たときに、「この無意味ヘッドバットが好きです」と発言したから。
ホットスパイスィー
堀口がKING OF GATEに備えて開発した技。変形コブラクラッチスープレックス。
波乗り
サーファーキャラ時代に使っていた技。リバース・インディアン・デスロックをかけた後、後ろに倒れ込まずに相手の背中に足を乗せ、サーフィンをしているようなポーズをする。ダメージを与えるのではなく、相手の精神を逆撫でする技。
ブルーミスト
いわゆる毒霧。マッスル・アウトローズのイメージカラーである青色を多用する。2007年3月25日の津大会で行われたマット・サイダルとのオープン・ザ・ブレイブゲート戦で初使用(この時はブルーではなく、レッドミストを使用した)。
リバースハーフネルソン式タイガードライバー
パワーボムをしかける体勢から、片腕をチキンウィングに固め、空いてる腕で相手の胴を抱えてしかけるタイガードライバー。ビッグマッチでは、持ち上げてからパイルドライバー気味に落とす。
ムーンサルトプレス
スイングDDT
タイトル歴 [編集]

闘龍門
第2回ヤングドラゴン杯優勝(1998年12月12日獲得)
EL NUMERO UNO 2003準優勝
DRAGON GATE
オープン・ザ・トライアングルゲート王者(パートナーは斎藤了、ドラゴン・キッド)(第2代王者、2005年獲得)
オープン・ザ・ブレイブゲート王者(第5代王者、2007年獲得)
オープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座(第7代王者、パートナーは斎藤了)
NWA
NWA世界ウェルター級王者(2002年獲得)
決め台詞 [編集]

Do FIXER時代に使用。
「神の宿る逆さ押さえ込みで1!2!3!……皆殺しだ」
「H!・A!・G!・E!」
試合開始直後に自ら観客を煽るときに使用する場合と、堀口が捕まっているときにパートナーがエールを送る場合と2パターンある。ROH遠征時には現地のファンがアメリカ式のイントネーション(「Let's go ○○」と同じ)で応援していた。
「マラハー!」
斎藤了との連携が決まった時に叫ぶ。この後斎藤了がファンと一緒に「イサッパー!」と合唱するのがお約束。
入場曲 [編集]

Surfin USA / Beach Boys
マラハ〜SAMURAI〜
GO TO HELL / ATLANTIS(現在使用)
エピソード [編集]

髪の毛が薄くなったのは、サーファーキャラ時代にパーマをかけたりブリーチをしたりといじりすぎたかららしい。
髪の毛を「命の次に大事」と言っており、試合中に髪の毛を掴まれると、とたんに元気がなくなる。またそれをきっかけに相手が髪の毛を集中攻撃にかかるため、生え際は後退を続けている。これにより堀口専用の技がかなり開発され、「ズル剥け式」と冠される。例として、ズル剥け式キャメルクラッチ(生え際をクラッチしてのキャメルクラッチ)、ズル剥け式フライング・メイヤー(首ではなく髪を掴む)などがある。スペル・シーサーが被っているマスクの毛をむしって、自分の頭に移植しようとしたほど髪のことになると敏感に反応する。
八木隆行に対してハゲと罵倒することがある。
「顔でプロレスをする男」と評されるほど、試合中は表情豊か。
嫌いな攻撃に「CRAZY-MAXのスプレー攻撃(生え際にコールドスプレーを噴射される)」と、プロレス技でないものをあげたことがある。
斎藤了とドン・フジイとの自転車窃盗事件が終了した後、今度は堀口のサーフボードが盗まれるという事件が発生した。堀口はすぐにリング上で「俺のサーフボード返せよ!」とマイクアピール。これから堀口とフジイの抗争が始まると思いきや、フジイは「じゃあ返すよ」とあっさり返却。窃盗事件は未遂に終わった。これを見ていた斎藤了が「フジイさん。堀口さんとも抗争してあげてくださいよ」と発言。これに堀口が「後輩のくせになんでお前なんかに…」と反発し、堀口と斎藤了の抗争に発展した。後に斎藤了はDo FIXER加入時に「これは日本ではなかなか手に入らないものです」と堀口に育毛剤を貢ぎ、和解している。
マッスル・アウトローズ加入の原因も斎藤了との仲違いだったのだが、後にその斎藤了がREAL HAZARDに加入して再び同僚になると、一緒にツインゲートへの挑戦をぶちあげたり、掲示板で「相棒が戻ってきたぜ」と書くなど、堀口本人がヒールターンした理由を忘れてしまったかのような言動が目立った(前回の「育毛剤プレゼント」のような和解のアクションは全くない)。さらに、自身がWARRIORSに加入する際に、条件として欠場中の斎藤了を迎え入れるよう要求するなど、堀口の「相棒」に対する思いはより強固になっている。
EL NUMERO UNO 2003で準優勝したことから、なにかとその実績を持ち出してはタイトルに絡もうとする。特にトーナメント戦には強いというアピールをしているが、EL NUMERO UNO以降、トーナメントでは目立った活躍はない。
「バイオテック」のCMキャラクターとして出演していた。育毛剤として「ガンマ剤」という名称の薬品を使用されていたが、偶然にもその後Gammaの所属するマッスル・アウトローズへ加入する。マッスル加入後もこのCMは放映されていたが、しばらくして放送されなくなった。
DRAGON GATEでも活躍した佐々木健介を呼び寄せたのは、ほかならぬ堀口元気であり、その交渉は直接健介の妻、北斗晶に電話をかけて行った。
勝っても負けても現在のランクや人気が落ちない選手。弱くもなければ特別強いという訳でもない不思議なレスラーである。
CIMA(2001年11月)、マグナムTOKYO(2003年4月)と両者にシングルでフォール勝ちしたことのある数少ない人物。また、望月成晃にも数回シングル戦で勝利したこともある。コミカルなキャラクターやジョバー(負け役)などが多かったが、事実上は上の世代を食っていける実力を持っている。  


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2010年12月28日

フレッド・ブラッシー

フレッド・ブラッシー(Fred Blassie、1918年2月8日 - 2003年6月2日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー、プロレス・マネージャー。本名はフレデリック・ブラスマン(Frederick Blassman)。ミズーリ州セントルイス出身。
ニックネームはクラッシー(Classy、お洒落な)。ハリウッド・ファッション・プレート(The Hollywood Fashion Plate)の異名を持ち、オシャレには非常に気を遣ったことでも知られる。近年でもザ・ロックやクリス・ジェリコらが彼のファッションの影響を受けている。日本では「銀髪鬼」と呼ばれ黎明期の日本プロレス界に衝撃を与えた。
決め台詞は自伝のタイトルにも使われた「Listen, You Pencil Neck Geeks!」(「よく聞け、この虚弱野郎ども!」といったような意味)。
夫人は日本人。
目次 [非表示]
1 来歴
2 日本プロレス界における影響
3 マネージャーとしてのブラッシー
3.1 主な担当選手
4 人物
5 得意技
6 獲得タイトル
7 著書
8 関連項目
9 外部リンク
来歴 [編集]

高校時代はボクシングや野球をしていたが、精肉所で働きながらトレーニングを積み1935年にプロレス入り。その後アメリカ海軍に入隊し第二次世界大戦へ出征した。戦後1947年に活動を再開し、正統派レスラー「フレッド・マクダニエル」としてNWAジュニアヘビー級王座を獲得するなど活躍していたが人気はいまひとつで、1959年に赤毛の髪を銀色に染め、ロサンゼルスを拠点として噛みつき攻撃を得意技とするヒールに転向してから大ブレイクした。
1961年ロサンゼルスに新たに設立された初代WWA認定世界ヘビー級チャンピオンとなるが、力道山に敗れタイトルを奪われた。1962年4月にタイトルを奪回すべく日本プロレスに参戦するため初来日。このとき力道山、グレート・東郷らとのタッグ戦でブラッシーの噛みつき口撃が炸裂、額から激しく血を滴らせるグレート・東郷の姿をテレビで見た老婆がショック死したこともあるが、当のブラッシーは気にかける様子もなく「アメリカでは5〜60人はショック死させた。」と言い放った。彼のヒールとしての嫌われようは半端ではなく、地元ロサンゼルスでは、幾度となくナイフを持ったファンに襲われ、硫酸をかけられたことすらあるという。投げつけられたゆで卵が眼に命中し、片方の視力はほとんど失われたともいわれる。
当時、1959年4月10日の皇太子明仁親王(今上天皇)成婚の中継をきっかけにテレビのカラー放送が一部開始された時期で、人気番組のプロレス中継もカラー放送(1960年9月10日開始)されていたが、カラーテレビが高価であったため、多くの一般家庭ではグレート・東郷の額から滴る黒光りするグロテスクな流血をモノクロテレビで視聴することになった。前述のように1962年4月27日には、カラーテレビでブラッシーの試合を視聴した老人4名(諸説あり)が流血シーンを見てショック死する事件が起きている。
1962年7月にロサンゼルスで力道山を破りタイトルを奪回し以後タイトルを防衛した後、1972年にも全日本プロレスに参戦しジャイアント馬場と対戦した。1974年には新日本プロレスにも参戦しアントニオ猪木と対戦したが、視聴者が噛みつき口撃を見慣れたこともあって、初来日のときの迫力は失われていた。
1973年にWWF(現・WWE)で現役引退後は悪役レスラーのマネージャーとして活躍した。新人レスラーの発掘にも尽力し、ハルク・ホーガン、スタン・ハンセンらを大スターへと導いた。1994年にはそれまでの功績を称え、WWF殿堂(現・WWE殿堂)に迎えられた。
2003年4月に自伝を上梓し、5月12日にWWEのRAW大会にゲスト出演したが、直後の5月24日に倒れ6月2日にニューヨーク郊外の病院で死去。死因は、長い間心臓と腎臓に疾患を抱えており、これが悪化したためといわれている。
ビンス・マクマホンが父親からWWEを買い取る際、父ビンス・シニアから出された条件がブラッシーとジェームス・ダッドリーの永久雇用であった。そのため彼は現場から退いた後も、生涯WWEのテレビ放送の在宅モニターを勤め、またビンスもブラッシーが亡くなる最期の日まで「ファイトマネー」を払い続けていた。
日本プロレス界における影響 [編集]

フレッド・ブラッシーは黎明期の日本プロレス界において、最も衝撃を与えた悪役レスラーである。前歯は差し歯だったと言われているが、この前歯をヤスリで研ぐパフォーマンスを見せたうえで、序盤から終盤まで噛みつき口撃で対戦相手を「血まみれ」にする悪役に徹した。ヤスリは、実のところ、爪を研ぐための目の細かいヤスリで、歯を削る真似をしただけだった(しかもこのパフォーマンスは力道山の指示による日本限定の物だったらしい)。異様な目つきで銀髪の外人レスラーが、当時のヒーロー力道山をはじめ人気レスラーの額に噛みつく姿は「吸血鬼」を連想させ「噛みつき魔」とも呼ばれた。
マネージャーとしてのブラッシー [編集]

ブラッシーは現役引退後もマネージャーとして活躍した。1976年6月26日に行われたアントニオ猪木対モハメド・アリの異種格闘技戦では、アリのマネージャーを務めた。プロレス出身でありながらボクシング陣営に加わったことで、プロレス関係者の反感を買った。また、無名だったハルク・ホーガンやスタン・ハンセンを売り出すにあたって、キャラクター作りにアドバイスを与え大スターへと導いた。一貫してヒールのマネージャーを務めており、ニコライ・ボルコフとアイアン・シークの反米軍マネージャーなどを務めた。ユーゴスラビアからの亡命者であったニコライ・ボルコフはギミック上ソ連出身の共産主義者として登場する際に、共産主義者のギミックを拒否していた。だがブラッシーの「演じることで嫌っていることを表現せよ」とのアドバイスでこのギミックを受け入れた、というエピソードもある。
主な担当選手 [編集]
ニコライ・ボルコフ
アイアン・シーク
スタン・ハンセン
ハルク・ホーガン
キラー・カーン
キラー・トーア・カマタ
ブラックジャック・マリガン
ジェシー・ベンチュラ
アドリアン・アドニス
ディック・マードック
アレン・コージ
プロフェッサー・タナカ
ミスター・フジ
ミスター・サイトー
タイガー・チャン・リー
ストロング小林
バロン・フォン・ラシク
ワルドー・フォン・エリック
スパイロス・アリオン
ピーター・メイビア
スウェード・ハンセン
ジョージ・スティール
ザ・ハングマン
ビクター・リベラ
クラッシャー・ブラックウェル
ビッグ・ジョン・スタッド
レイ・スティーブンス
カマラ
ミッシング・リンク
ハーキュリーズ

人物 [編集]

大の親日家として知られる。2度の離婚の後、1965年、小倉駅にて当時20歳だった日本人の三耶子さんと出会い一目惚れし、1968年に結婚した。三耶子夫人はブラッシーの最期まで添い遂げた。存命中に『あの人は今!?』(日本テレビ系)の取材に夫婦で笑顔で出演し、自宅でミヤコさんがブラッシーの散髪をする姿が放映されたこともある。三耶子さんは、2003年7月のWWE横浜アリーナ大会開催時のパンフレットに手記を寄せている。
1978年に藤波辰巳(現・藤波辰爾)がニューヨークでWWWF(現WWE)ジュニアヘビー級王座を獲得した際、公私にわたり尽力した。ブラッシー死去の知らせを受けた藤波は「とても寂しい。自宅に招待され食事をご馳走になった。当時(ニューヨークでの王座獲得)があるから今の僕がある。とても感謝している」とコメントを寄せている。
噛み付きギミックのせいで、肝炎になったことがある。
引退後もヒールとしてのリップサービスを忘れておらず、力道山へのコメントを求められた際も「リキとは地獄で決着をつけなければならない」と答え、「力道山は天国に居ます」というインタビュアーの反論に対しても「奴は俺と同じ地獄行きだ」と切り返した。
プロレスラーとしてのキャリアの中で、ショック死に至らしめたプロレスファンの累計人数は90人超。本人は内心、100人の大台を目指していた。
得意技 [編集]

ネックブリーカー
クロー・ホールド
噛み付き攻撃
ステッキ攻撃(マネージャー転向後)
獲得タイトル [編集]

NWA南部ジュニア・ヘビー級王座:1回
WWA世界ヘビー級王座:2回
WWA世界タッグ王座:2回(w / ミスター・モト、バディ・オースチン)
WWAインターナショナルTVタッグ王座:3回(w / ミスター・モト×2、ドン・レオ・ジョナサン)
NWAアメリカス・ヘビー級王座:4回
NWAアメリカス・タッグ王座:1回(w / ドン・カーソン)
NWAジョージア・ヘビー級王座:1回
NWA南部ヘビー級王座(ジョージア版):17回
NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):1回
NWA世界タッグ王座(フロリダ版):1回(w / ターザン・タイラー)
NWA北米ヘビー級王座(ハワイ版):1回
WWF Hall of Fame 1994 (プレゼンターはシェイン・マクマホン)
 etc.
著書 [編集]

フレッド・ブラッシー自伝(2003年、エンターブレイン刊)ISBN 4757716923  


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2010年12月28日

マーク・コパーニ

マーク・コパーニ(Mark Copani、1981年11月7日 - )はアメリカの元プロレスラー。ヨルダンアンマン生まれ、ニューヨーク出身。父親がイタリア人、母親がヨルダン人で、イタリア系アメリカ人かつアラブ系アメリカ人でもある。プロレスラーのキャリアにおいて、リングネームモハメド・ハッサン(Muhammad Hassan)としてWWEでの活躍が最も知られる。
経歴 [編集]

プロレスデビューは2003年2月。WWE下部組織であるOVWに所属し、マーク・マグナス(Mark Magnus)のリングネームで活動していた。

2004年12月13日にRAWに登場。アラブ系のギミック、リングネームに変更し、マネージャーにデバリを伴って登場する。アメリカ同時多発テロ事件以降アラブ系への差別が激しくなったことを前面に打ち出し、ヒールとして活動を開始する。アメリカの愛国心に関わるヒールであったため、以降WWEのトップレスラーと次々と抗争を開始する。 ニュー・イヤーズ・レボリューションでのジェリー・ローラー戦や、アメコミヒーローのザ・ハリケーン、サージェント・スローターとの戦い、トップレスラーであるクリス・ジェリコらと次々に戦い、勝利した。
2005年のロイヤルランブルではハッサンがリングに登場するとそれまで戦っていたレスラーが手を止め、全員でハッサンを取り囲んで攻撃するなど、この時期には既にトップヒールの地位にあった(しかし、アッラーに祈りをささげたハッサンに一斉に攻撃を加えたため、インターネット上では物議を醸した)。レッスルマニア21では、出場できないことが差別であると主張してユージンにキャメルクラッチを仕掛けたところにハルク・ホーガンが登場。デバリとともに戦った。レッスル・マニア後はRAWを代表するスーパースターであるショーン・マイケルズと抗争。バックラッシュではデバリと組んでホーガン、マイケルズのドリームタッグと戦った。バックラッシュ後もバティスタ、シェルトン・ベンジャミンとのIC王座戦、スマックダウンから移籍してきたジョン・シナと次々と抗争する。
2005年6月23日にデバリとともにスマックダウンに移籍する。スマックダウンではジ・アンダーテイカーと抗争を開始したが、7月7日にロンドン同時爆破テロがあったこともあり、テロリストを連想させるハッサンとデバリのTV出演を放送局が拒否し、TVから姿を消す。グレート・アメリカン・バッシュでのテイカー戦を最後にスマックダウンから去り、OVWへ降格する。 OVW降格後の9月、レスラーとして引退して俳優を目指すようになった。
その時期の米国の状況から、アラブ系のキャラクターとして活躍するハッサンはWWEでは一貫してヒールであったが、その実、あまり負けない事をウリにしており、実際ハッサンに勝ったのはジョン・シナとジ・アンダーテイカー、クリス・ベノワ(DQ)ぐらいである。
得意技 [編集]

キャメルクラッチ
フラットライナー  


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2010年12月28日

ラ・レジスタンス

ラ・レジスタンス(La Resistance)は、かつて、アメリカのプロレス団体WWEで活動したプロレスラーのユニットである。2003年にシルヴァン・グラニエ、レネ・デュプリーで結成。反米思想を掲げるフランス人というギミックで、これはフランスがアメリカのイラク攻撃に反対の姿勢を示した事に由来する。後にロブ・コンウェイが加入して3人組となるが、2004年にデュプリーがSmackDown!に移籍したため離脱し、フランス系カナダ人が多く住むカナダ・ケベック州在住というギミックに変更し、再び2人組になりタッグ戦線をリードした。2005年にタッグ王座陥落後、タッグ戦線でもうまくいかなくなり、シェルトン・ベンジャミンとのIC王座戦でついに決別、シルヴァンが移籍、さらにコンウェイのギミックチェンジによりラ・レジスタンスは消滅した。
2007年2月にECWにてデュプリーとシルヴァンの2人で復活させるが、その後すぐにデュプリーの薬物テストで陽性反応が出たため、シルヴァンも巻き添えを食らい出番がなくなる。そしてコンウェイは5月に、デュプリーは7月、シルヴァンは8月にそれぞれWWEを解雇されてしまった。
目次 [非表示]
1 得意技
2 タイトル履歴
2.1 WWE
3 入場曲
得意技 [編集]

オール・ボワール
相手を2人してかかげ上げねじり落す合体技。ボン・ソワの代わりとして、使用。
ボン・ソワ
ダブルのスパイン・バスター。スパイク・ダッドリーを負傷させたため、封印した。
タイトル履歴 [編集]

WWE [編集]
WWE世界タッグ王座:4回  


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2010年12月28日

サージェント・スローター

サージェント・スローター(Sgt. Slaughter / Sergeant Slaughter、1948年8月27日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。コネチカット州ウィルマー出身。本名はロバート・リーマス(Robert Remus)。『鬼軍曹』と呼ばれる軍人ギミックで1970年代から1990年代後期まで活躍した。
元WWF世界ヘビー級チャンピオン、WWE殿堂入り選手。愛称は『サージ』。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

大学を卒業後、1年間バージニア州の海軍に在籍。1972年にバーン・ガニアのコーチを受けAWAでデビュー。デビュー当時は "ビューティフル" ボビー・リーマスというキャラクターであった。その後、各地を転々としながらボブ・リーマス(日本での表記はレムス)、ボビー・スローター等のリングネームを名乗り、大型のヒールとして活動する。
初来日は1975年1月の国際プロレス。同年7月には全日本プロレスに登場。1978年、AWAに戻りボビー・ヒーナンをマネージャーに覆面レスラーのスーパー・デストロイヤー・マークIIに変身。これが最初のブレイクとなった(パートナーのマークIIIはネイル・グアイ)。1980年6月には、ミネソタ州ミネアポリスでジャイアント馬場のPWFヘビー級王座にも挑戦している。
同年9月、ビンス・マクマホン・シニアに招かれてニューヨークのWWF(現・WWE)に移籍、軍人としてのキャリアをもとに、以後10年以上に渡って米プロレス界で一時代を築くことになる「鬼軍曹 サージェント・スローター」に変身する。グラン・ウィザードをマネージャーに、ブルーノ・サンマルチノ、ペドロ・モラレス、パット・パターソンなどの大物選手と対戦。アンドレ・ザ・ジャイアントとのスーパーヘビー級対決も行った。1年後、ジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッド・アトランティック地区に参戦、ここでもリッキー・スティムボートやワフー・マクダニエルをはじめトップスターと抗争するなど、変わらずの活躍を見せた。
鬼軍曹としてのキャラクター設定は徹底しており、プロモーション用のインタビューでは新兵を罵倒する下士官そのままに、口汚い言葉を抗争相手のベビーフェイスとそのファン達に浴びせていた(タズは少年時代、スローターのマイクパフォーマンスを見てスラングを学んだと述懐している)。また、ミッド・アトランティック地区ではドン・カヌードルやジム・ネルソンらを二等兵ギミックの部下に仕立て「コブラ・コープス」なる小隊を指揮。彼らをパートナーにタッグ戦線にも進出したが、部下達が試合中にミスを起こすと殴りつけ、まだ試合が続いているにもかかわらず罰則としてリング上で腕立て伏せを命じるなどした[1]。
1981年5月と1982年8月の2度に渡って新日本プロレスにも登場し、アントニオ猪木ともシングルマッチを行っている(2戦して2度共フォール負け。1981年の来日は第4回MSGシリーズへの参加で、スタン・ハンセンやタイガー・ジェット・シンとも公式戦で対戦している)。
1983年には主戦場をWWFに戻し、当時のWWF王者だったボブ・バックランドに挑戦。チキンウィング(バックランド)対コブラクラッチ(スローター)のサブミッション対決で話題を呼ぶ。翌1984年にWWFが米プロレス界の統一を目指して全米侵攻サーキットを開始すると、反米ギミックのアイアン・シークとの抗争でベビーフェイスに転向し、ハルク・ホーガンに次ぐエース選手格となった。その後もニコライ・ボルコフやノース・サウス・コネクション(ディック・マードック&アドリアン・アドニス)などと抗争するが、「プロレスラーの労働組合」を組織しようとしたことが原因で同年末に解雇される。
解雇後には古巣であった末期AWAに戻り、ミスター・サイトー、カマラ、ロード・ウォリアーズ、スタン・ハンセンらと抗争を展開した。1987年には、彼をモデルにしたG.I.ジョーが製造元ハズブロ社より発売された。彼は自身のキャラクターグッズの版権などのロイヤリティーをAWA代表のバーン・ガニアに求めたため、ガニアからは疎まれたという。
湾岸戦争が勃発した1990年、突如WWFに復帰。「フセインに魂を売った男」として再び大ヒールに転向する。セコンドにはかつての宿敵カーネル・ムスタファ(アイアン・シーク)、末期AWA時代の抗争相手でもあったジェネラル・アドナン(シーク・アドナン・アル=ケイシー)を従えていた。年が明けての1991年1月19日に行われたロイヤルランブルでは、アルティメット・ウォリアーを破り、WWF世界ヘビー級王座を獲得した。しかしこの「WWF版湾岸戦争」は米国の一部メディア・国民から大きなバッシングを受け、実際の湾岸戦争が終結した直後の1991年3月24日、規模を縮小して行われたレッスルマニアVII(当初は屋外のスタジアム会場で行われる予定だった)にてハルク・ホーガンに敗退、王座陥落と共にこのストーリーも終了した。その後は再度ベビーフェイスに転向し、ジム・ドゥガンとの愛国者コンビで約1年間活躍した後、セミリタイアして裏方のロード・エージェントに転身。
D-Xが結成された当初は、「会社側の良心派」として彼らと抗争。「悪ガキに軍人精神を叩き込む」というアングルのもと、1997年12月7日にはハンター・ハースト・ヘルムスリーとコンバットスタイルのハードコアマッチであるブート・キャンプ・マッチも行っている。2000年2月29日にはカート・アングルと対戦。敗れたものの、現役時代を彷彿とさせるコブラクラッチ等を披露、観客を沸かせた。2001年4月1日に開催されたレッスルマニアX-Sevenのギミック・バトルロイヤルでは、旧敵アイアン・シークと決勝を争っている。
2004年、WWE殿堂入り。その後もエージェントとしてWWEをサポートする一方、年に何度かは試合にも出場し、2006年11月26日に行われたサバイバー・シリーズ2006では、リック・フレアー、ダスティ・ローデス、ロン・シモンズとタッグチームを結成。スピリット・スクワッドとイリミネーション・マッチで対戦し、勝利を収めた。
2009年1月にエージェント職を解任されたが、アンバサダー(親善大使)として会社には留まっており、イベント等への出演を続けている。同年8月10日にはRAWのホストを務めた。開催地がカナダであり、観客をたびたび挑発したため会場はブーイングの嵐となった。
得意技 [編集]

コブラクラッチ
パイルドライバー
クローズライン
ストマック・クラッシャー
ダイビング・ニー・ドロップ
キャメルクラッチ
獲得タイトル [編集]

ボビー・スローター
NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:3回
NWA USタッグ王座(トライステート版):1回(w / バック・ロブレイ)
ジ・エクスキューショナー
NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / パク・ソン)
サージェント・スローター
NWA USヘビー級王座(ミッドアトランティック版):2回
NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):1回(w / ドン・カヌードル)
NWAカナディアン・ヘビー級王座(トロント版):1回
AWA大英帝国ヘビー級王座:1回
AWAアメリカズ王座:1回
WWF世界ヘビー級王座:1回
WWE Hall of Fame:2004年度(プレゼンターはパット・パターソン)  


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2010年12月28日

山本尚史

山本 尚史(やまもと なおふみ、男性、1977年8月1日 - )は、日本のプロレスラー。現在はヨシ・タツ(YOSHI TATSU)のリングネームでWWEのRAWに所属。岐阜県岐阜市出身。WWEでは東京出身という設定になっている。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 新日本プロレス時代
1.2 WWE所属後
2 得意技
3 入場テーマ曲
4 備考
5 外部リンク
来歴 [編集]

新日本プロレス時代 [編集]
国士舘大学時代はレスリング部に1年間所属し、ボクシング・フリースタイル柔術なども経験。2002年3月に新日本プロレスへ入門。同期に中邑真輔、田口隆祐、長尾浩志、後藤洋央紀がいる。
アメリカ合衆国に渡り、新日本プロレス・ロサンゼルス道場で修行した後、同年10月12日に後楽園ホールの井上亘戦でデビュー。2004年と2005年には第9回、第10回ヤングライオン杯に連続参加。優勝は逃すが、積極的な試合内容で注目される。当時の必殺技は後藤達俊直伝のバックドロップ。2005年にはボクシングプロテストを受けることが発表されたが、結果の発表はされていない。
2006年の選手大量離脱に伴い、IWGPタッグ王座への挑戦、ZERO1-MAXの崔リョウジとの抗争など、主に永田裕志のパートナーとして第一線の試合での起用が増えるようになる。
2007年11月より無期限の海外遠征に出発。フロリダ州タンパを拠点に、FCW等で活動。
WWE所属後 [編集]
2008年2月に新日本プロレスとの契約を更新せずフリーとなり、4月にWWEのトライアウトに合格してWWE所属選手となっていたことを9月に発表し、以後下部団体であるFCWを中心に活動する。12月ごろからは父親の名前にちなんだヨシタツ(YOSHITATSU)というリングネームとなった。
2009年6月30日、リングネームをヨシ・タツ(YOSHI TATSU)へと変更しECWでデビュー、ヨシ・タツを相手にせず挑発ばかりしていたシェルトン・ベンジャミンにハイキック一撃で勝利を収めた。その翌週のECWにて再戦するも今度は敗戦に終わっている。その後はポール・バーチルやウィリアム・リーガルなどを相手に勝利を収めている。
9月15日のECWでは三沢光晴へのリスペクトとしてエメラルドグリーンのタイツを着用、対戦相手のザック・ライダーに三沢の得意技ローリング・エルボーを見舞い、実況のマット・ストライカーも名前は出さなかったもののヨシ・タツが「憧れたヒーロー」のオマージュを披露したと解説した。
試合の間に挟まれるスキットではゴールダストから英語や西洋文化を学んだり、逆にゴールダストに日本語などを教えたりしている。実況からはECW版おかしな二人などと言われたりしている。また試合でもゴールダストとタッグを組むことが多い。
10月20日のECWにてクリスチャンが保持するECW王座への挑戦権を懸けてザック・ライダーと対戦。これを退け、正式にECW王座挑戦権を獲得した。10月27日収録のECWにてクリスチャンが保持するECW王座に初挑戦したが王座奪取とはならなかった。なお、この試合は年末にWWEが実施した、WWE Universeが選ぶ2009年ベストマッチ25で22位にランクインした(ECWの中では第2位だった)。
12月14日、RAWに初登場。ジョン・モリソン、マーク・ヘンリーと組み、ザ・ミズ、ドリュー・マッキンタイア、ザック・ライダーのチームと6人タッグマッチで対戦。ザック・ライダーから右ハイキックでピンフォールを奪い、RAW初登場を自らの勝利で飾った。
2010年1月12日のECWではECW王座への挑戦権を賭けたECWホームカミング・フィナーレに出場するも勝利を逃す。
1月19日のECW放送終了後に公式サイトにおいて、1月31日に行われるロイヤルランブル戦へのエントリーが正式に発表され、デビュー後初のPPV出場が決定した。ロイヤルランブル戦への日本人レスラーの出場は史上7人目である。PPV当日のロイヤルランブル戦では21番目に登場、30秒足らずでジョン・シナにエリミネートされる。
2月16日のECWの番組最終回において、ザ・ミズとビッグ・ショーが保持する統一タッグチーム王座に挑戦するも、王座奪取とはならなかった。
ECWの番組終了にともない、2月22日よりRAWに移籍した。
3月28日に行われたレッスルマニア第26回大会では、PPV中継開始前に行われたダーク・マッチの26人バトルロイヤルに出場し、優勝した。WWEのバトルロイヤルで日本人が優勝したのは、1984年7月のマディソン・スクエア・ガーデン大会において行われた試合で優勝したアントニオ猪木以来、約25年9か月ぶり。また、日本人レスラーのレッスルマニアでの勝利は曙以来5年ぶり史上6人目である。
同年8月20日・21日に両国国技館で行われたRAWサマースラムツアー日本公演に出場。20日にクリス・ジェリコとのシングル戦、21日にジョン・シナと組んでのジェリコ&シェイマス組とのタッグマッチで凱旋を果たした。
得意技 [編集]

ハイキック
現在のフィニッシャー。相手の不意をついて使ったり、カウンターで使うなど、さまざまな形で使用する。
フライングニールキック
現在のフィニッシャー。スプリングボード式、スワンダイブ式で決めることもある。
パラレル・スナップメア
自らも相手と並行して前方回転しながら投げるフライング・メイヤー。回転した勢いで素早く立ち上がり、胸板へのキックへと連絡する。
キック
大学時代に正道会館で修行していた経験を持ち、ロー、ミドル、ハイ、ソバットを使い分ける。
ローリング・エルボー
2009年9月15日収録のECWでのザック・ライダー戦で初めて披露し、以降技のレパートリーのひとつになりつつある。
ドラゴン・スクリュー
スナップ・メアからキックに繋ぐ技としてよく使用する。
逆水平チョップ
ショーン・マイケルズが退団した頃から使い始め、現在のWWEでは唯一の使い手である。
シャイニング・ウィザード
グレゴリー・ヘルムズが解雇された頃から、使用し始めている。
介錯
渡米後のFCWでのフィニッシュ・ホールドで飛びつき(ヘッドシザース)式卍固め。吉野正人のフロムジャングルに似た技。ECW昇格後はTVでは使用していなかったが、2010年4月5日の「スーパースターズ」収録枠にて、エヴァン・ボーンと組み、チャボ・ゲレロ、ザック・ライダー組とタッグマッチで対戦した際、ザック・ライダー相手に昇格後初めて使用した。
天下獲りバックドロップ
後藤達俊直々に指導を受け習得した必殺技。劣勢の状態をこの技一発でひっくり返すことがあった。WWEに入団してからは、一度も使っていなかったが、2010年の日本公演でクリス・ジェリコに対して使った。
クロスフィックス
羽根折り式腕ひしぎ逆十字固め。一時期のフィニッシュ・ホールドでもあった。
脇固め
逆エビ固め
テキサスクローバーホールド
新日本時代フィニッシュ・ホールドとして出すこともあった。
ハンドスプリングエルボー
ロープを逆立ちするようにバウンドし、その反動を利用して相手にバックエルボーを叩き込む。最近使い始めた。
入場テーマ曲 [編集]

新日本時代
SANCTUARY
FCW
Tuff Stuff
WWE
J-Pop Drop - 現在使用中
備考 [編集]

中日ファンで、棚橋弘至と一緒に、2004年中日優勝の瞬間に試合観戦をしていた。
FCW加入からしばらくの間、本人が新日本入門前にファンだったという平成維震軍のコスチュームを着用していた。着用に当たっては当時のメンバーだった先輩の小林邦昭、後藤達俊らから許可をもらい、さらに実際の当時コスチュームをオーダーした業者を紹介してもらったという。
現在のリングネーム「YOSHI TATSU」を命名したのはFCWでエージェント兼実況コメンテーターを務めているダスティ・ローデスである。
これまでにも何人もの日本人選手が契約選手としてWWE(1軍)のリングに上がっているが、ディベロップメント(育成選手)契約からの昇格は初のケースとなった。
本人いわく特異な出世をしており。WWEの選手の多くはWWEに来るまでにシングル王座を獲得しているかFCWで王座に絡んでいるがいずれも満たしていない。(WWE加入後初めて王座に挑戦した王座がECW王座である)
総合格闘家の所英男とは同郷ということもあり、学生時代からの友人。
ランシドのラーズ・フレデリクセンとは、新日本プロレス時代からお互いのバックステージを訪問し観戦・観賞し合うなど交流がある(フレデリクセン自身、日本のプロレスを見るためだけに来日するほど大変なプロレスファンで、日米問わず関係者との交友関係は深い)。  


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