2011年01月06日
ゴリラ・モンスーン
ゴリラ・モンスーン(Gorilla Monsoon、1937年6月4日 - 1999年10月6日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。本名ロバート・ジェームズ・マレラ(Robert James Marella)。ニューヨーク州ロチェスター出身。
そのプロレスラーとしてのキャリアのほとんどをWWWFで過ごし、引退後もWWFでビンス・マクマホンの片腕として要職を務め、テレビの中では実況アナウンサーを担当、生涯をWWEに捧げた。日本でのニックネームは「人間台風」。
愛称はジノ(Gino)、ゴリラ、モンスーンなど。現役時代は196cm、158kgの体格を活かしたパワーファイターとして活躍した。1994年、WWE殿堂入り。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 現役時代
1.2 引退後
2 得意技
3 獲得タイトル
4 外部リンク
来歴 [編集]
現役時代 [編集]
高校時代はレスリング、アメリカンフットボール、陸上競技などで活躍。アイザック大学を首席で卒業後、地元の高校教師となったが、その体格に目を付けられてスカウトされ1959年にジノ・マレラの名でデビュー。1963年4月に日本プロレスに初来日。同年8月、旗揚げ間もないWWWF(現WWE)に移籍し、ビンス・マクマホン・シニアから「満州出身の元アジア王者」ゴリラ・モンスーンのリングネームを与えられ、怪人ヒールに変身した。モンスーンの由来は前述の「人間台風」(訳すとヒューマン・タイフーンとなる)がヒントになったという。
1963年10月、いきなりブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座への挑戦者としてニューヨーク・デビュー。1か月後にはキラー・コワルスキーとのタッグでスカル・マーフィー&ブルート・バーナードを下しWWWF・USタッグ王座(世界タッグ王座の前身)に戴冠。さらにその数日後には再びサンマルチノに挑み、60分フルタイムドローの熱戦を繰り広げた。USタッグ王座は1965年にビル・ワットとのコンビでも、ジン・キニスキー&ワルドー・フォン・エリックを破り再度獲得している。
サンマルチノの最大のライバルとして活躍後の1969年、ザ・シークに襲われたところを、その宿敵サンマルチノに助けられ、彼との「友情ストーリー」を経てベビーフェイスに転向した。「満州出身」のプロフィールは削除され、ペドロ・モラレスがWWWF王者だった期間は、彼の通訳兼マネージャーとして活動。
1976年、モハメド・アリとアントニオ猪木の異種格闘技戦が決定すると(当時WWWFと新日本プロレスは提携関係にあった)、WWWFのリングに登場したアリに乱闘を仕掛け、エアプレーン・スピンを見舞っている。また翌年にはアンドレ・ザ・ジャイアントとボクシング・マッチを行った。1980年、ケン・パテラとのインターコンチネンタル王座と自身の引退を賭けた試合に敗れ、マイケル・シクルナと引退試合を行い、リングを降りた。
引退後 [編集]
ビンス・シニアとの友情と信頼により、1976年からWWWFの親会社キャピタル・コーポレーション・レスリングの役員を務めていたため、現役時代からバックステージではブッカー / プロデューサーの立場にあった。ブルーザー・ブロディがWWWFを離れたのもマレラと大喧嘩をしたためである(もっとも、ブロディは各地のプロモーターと必ずと言っていいほど軋轢を起こしており、結局それが原因で刺殺された)。
ビンス・マクマホンが父からWWFを買収した際には自身の持株も売り、その後は裏方の業務と並行して眼鏡がトレードマークの冷静な実況アナウンサーを務めるようになる。ジェシー・ベンチュラ、ジョニー・バリアント、ボビー・ヒーナンといった「ヒール解説者」とのコンビで新時代のプロレスを聴覚面で担い、特にヒーナンとのコンビは現在でも史上最高とも評される。
1993年、実況アナの席をWCWから移籍してきたジム・ロスに譲り、裏方に専念。リング上では「WWF会長」に就任した(前任はジャック・タニー)。レッスルマニア12でのブレット・ハートvsショーン・マイケルズのアイアンマン・マッチでは、会長としてサドンデス式延長戦を命じている。また、『Metal』『Superstars』などの番組において、前座試合のコメンテーターとして再び放送席に座ることも度々あった。テレビ画面に最後に登場したのは1999年のレッスルマニア15で、同年10月6日に腎不全により死去。
WWEでは今でも、いつも彼が陣取って指示を出していた入場ゲート裏をゴリラ・ゾーンと呼ぶ(現在この席にはビンス・マクマホンが座っている)。人格者として多くの人に慕われ、2003年のWWE殿堂入り式典では、当年殿堂入りしたボビー・ヒーナンが壇上スピーチで親友モンスーンへの想いを語り、観客の涙を誘った。
ニューヨークで、同じくサンマルチノのライバルとして活躍した、ジャイアント馬場とも親友の間柄であった。そのため、1974年にWWFが新日本プロレスと提携した際も、サンマルチノ同様、馬場との友情関係を理由に新日本への参戦を拒否し、全日本プロレスに出場し続けていた。
得意技 [編集]
エアプレーン・スピン
ゴリラ・スプラッシュ
ジャイアント・スイング
獲得タイトル [編集]
WWE
WWWF USタッグ王座:2回(w / キラー・コワルスキー、ビル・ワット)
WWF Hall of Fame:1994年度(プレゼンターはジム・ロス)
その他
WWA世界タッグ王座(ロサンゼルス版):2回(w / ルーク・グラハム、エル・モンゴル)
IWA世界ヘビー級王座(オーストラリア版):1回
WWC北米ヘビー級王座:2回
外部リンク [編集]
WWE Hall of Fame
Profile - Online World of Wrestling
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表・話・編・歴
WWE殿堂
1993年
アンドレ・ザ・ジャイアント
1994年
アーノルド・スコーラン | ボボ・ブラジル | バディ・ロジャース | チーフ・ジェイ・ストロンボー | フレッド・ブラッシー | ゴリラ・モンスーン | ジェームス・ダッドリー
1995年
アントニオ・ロッカ | アーニー・ラッド | ジョージ・スティール | イワン・プトスキー | ザ・ファビュラス・ムーラ | ザ・グラン・ウィザード | ペドロ・モラレス
1996年
ジミー・スヌーカ | ジョニー・ロッズ | キラー・コワルスキー | キャプテン・ルー・アルバーノ | バロン・マイケル・シクルナ | パット・パターソン | ザ・バリアント・ブラザーズ(ジミー・バリアント、ジョニー・バリアント) | ビンス・マクマホン・シニア
2004年
ビッグ・ジョン・スタッド | スーパースター・ビリー・グラハム | ボビー・ヒーナン | ドン・ムラコ | グレッグ・バレンタイン | ハーリー・レイス | ジェシー・ベンチュラ | ジャンクヤード・ドッグ | サージェント・スローター | ティト・サンタナ | ピート・ローズ
2005年
カウボーイ・ボブ・オートン | ハルク・ホーガン | ジ・アイアン・シーク | ジミー・ハート | ニコライ・ボルコフ | ポール・オーンドーフ | ロディ・パイパー
2006年
ザ・ブラックジャックス(ブラックジャック・マリガン、ブラックジャック・ランザ) | ブレット・ハート | エディ・ゲレロ | ジーン・オーカーランド | センセーショナル・シェリー | トニー・アトラス | バーン・ガニア | ウィリアム・ペリー
2007年
カート・ヘニング | ダスティ・ローデス | ジェリー・ローラー | ジム・ロス | ミスター・フジ | ニック・ボックウィンクル | ザ・シーク | ザ・ワイルド・サモアンズ(アファ・アノアイ、シカ・アノアイ)
2008年
ザ・ブリスコ・ブラザーズ(ジャック・ブリスコ、ジェリー・ブリスコ) | エディ・グラハム | ゴードン・ソリー | メイ・ヤング | ピーター・メイビア | リック・フレアー | ロッキー・ジョンソン
2009年
ビル・ワット | ハワード・フィンケル | ザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク) | ココ・B・ウェア | リッキー・スティムボート | ストーン・コールド・スティーブ・オースチン | ザ・フォン・エリックス(フリッツ・フォン・エリック、ケビン・フォン・エリック、デビッド・フォン・エリック、ケリー・フォン・エリック、マイク・フォン・エリック、クリス・フォン・エリック)
2010年
アントニオ猪木 | テッド・デビアス | マッドドッグ・バション | ウェンディ・リヒター | ゴージャス・ジョージ | スチュ・ハート | ボブ・ユッカー
そのプロレスラーとしてのキャリアのほとんどをWWWFで過ごし、引退後もWWFでビンス・マクマホンの片腕として要職を務め、テレビの中では実況アナウンサーを担当、生涯をWWEに捧げた。日本でのニックネームは「人間台風」。
愛称はジノ(Gino)、ゴリラ、モンスーンなど。現役時代は196cm、158kgの体格を活かしたパワーファイターとして活躍した。1994年、WWE殿堂入り。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 現役時代
1.2 引退後
2 得意技
3 獲得タイトル
4 外部リンク
来歴 [編集]
現役時代 [編集]
高校時代はレスリング、アメリカンフットボール、陸上競技などで活躍。アイザック大学を首席で卒業後、地元の高校教師となったが、その体格に目を付けられてスカウトされ1959年にジノ・マレラの名でデビュー。1963年4月に日本プロレスに初来日。同年8月、旗揚げ間もないWWWF(現WWE)に移籍し、ビンス・マクマホン・シニアから「満州出身の元アジア王者」ゴリラ・モンスーンのリングネームを与えられ、怪人ヒールに変身した。モンスーンの由来は前述の「人間台風」(訳すとヒューマン・タイフーンとなる)がヒントになったという。
1963年10月、いきなりブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座への挑戦者としてニューヨーク・デビュー。1か月後にはキラー・コワルスキーとのタッグでスカル・マーフィー&ブルート・バーナードを下しWWWF・USタッグ王座(世界タッグ王座の前身)に戴冠。さらにその数日後には再びサンマルチノに挑み、60分フルタイムドローの熱戦を繰り広げた。USタッグ王座は1965年にビル・ワットとのコンビでも、ジン・キニスキー&ワルドー・フォン・エリックを破り再度獲得している。
サンマルチノの最大のライバルとして活躍後の1969年、ザ・シークに襲われたところを、その宿敵サンマルチノに助けられ、彼との「友情ストーリー」を経てベビーフェイスに転向した。「満州出身」のプロフィールは削除され、ペドロ・モラレスがWWWF王者だった期間は、彼の通訳兼マネージャーとして活動。
1976年、モハメド・アリとアントニオ猪木の異種格闘技戦が決定すると(当時WWWFと新日本プロレスは提携関係にあった)、WWWFのリングに登場したアリに乱闘を仕掛け、エアプレーン・スピンを見舞っている。また翌年にはアンドレ・ザ・ジャイアントとボクシング・マッチを行った。1980年、ケン・パテラとのインターコンチネンタル王座と自身の引退を賭けた試合に敗れ、マイケル・シクルナと引退試合を行い、リングを降りた。
引退後 [編集]
ビンス・シニアとの友情と信頼により、1976年からWWWFの親会社キャピタル・コーポレーション・レスリングの役員を務めていたため、現役時代からバックステージではブッカー / プロデューサーの立場にあった。ブルーザー・ブロディがWWWFを離れたのもマレラと大喧嘩をしたためである(もっとも、ブロディは各地のプロモーターと必ずと言っていいほど軋轢を起こしており、結局それが原因で刺殺された)。
ビンス・マクマホンが父からWWFを買収した際には自身の持株も売り、その後は裏方の業務と並行して眼鏡がトレードマークの冷静な実況アナウンサーを務めるようになる。ジェシー・ベンチュラ、ジョニー・バリアント、ボビー・ヒーナンといった「ヒール解説者」とのコンビで新時代のプロレスを聴覚面で担い、特にヒーナンとのコンビは現在でも史上最高とも評される。
1993年、実況アナの席をWCWから移籍してきたジム・ロスに譲り、裏方に専念。リング上では「WWF会長」に就任した(前任はジャック・タニー)。レッスルマニア12でのブレット・ハートvsショーン・マイケルズのアイアンマン・マッチでは、会長としてサドンデス式延長戦を命じている。また、『Metal』『Superstars』などの番組において、前座試合のコメンテーターとして再び放送席に座ることも度々あった。テレビ画面に最後に登場したのは1999年のレッスルマニア15で、同年10月6日に腎不全により死去。
WWEでは今でも、いつも彼が陣取って指示を出していた入場ゲート裏をゴリラ・ゾーンと呼ぶ(現在この席にはビンス・マクマホンが座っている)。人格者として多くの人に慕われ、2003年のWWE殿堂入り式典では、当年殿堂入りしたボビー・ヒーナンが壇上スピーチで親友モンスーンへの想いを語り、観客の涙を誘った。
ニューヨークで、同じくサンマルチノのライバルとして活躍した、ジャイアント馬場とも親友の間柄であった。そのため、1974年にWWFが新日本プロレスと提携した際も、サンマルチノ同様、馬場との友情関係を理由に新日本への参戦を拒否し、全日本プロレスに出場し続けていた。
得意技 [編集]
エアプレーン・スピン
ゴリラ・スプラッシュ
ジャイアント・スイング
獲得タイトル [編集]
WWE
WWWF USタッグ王座:2回(w / キラー・コワルスキー、ビル・ワット)
WWF Hall of Fame:1994年度(プレゼンターはジム・ロス)
その他
WWA世界タッグ王座(ロサンゼルス版):2回(w / ルーク・グラハム、エル・モンゴル)
IWA世界ヘビー級王座(オーストラリア版):1回
WWC北米ヘビー級王座:2回
外部リンク [編集]
WWE Hall of Fame
Profile - Online World of Wrestling
[隠す]
表・話・編・歴
WWE殿堂
1993年
アンドレ・ザ・ジャイアント
1994年
アーノルド・スコーラン | ボボ・ブラジル | バディ・ロジャース | チーフ・ジェイ・ストロンボー | フレッド・ブラッシー | ゴリラ・モンスーン | ジェームス・ダッドリー
1995年
アントニオ・ロッカ | アーニー・ラッド | ジョージ・スティール | イワン・プトスキー | ザ・ファビュラス・ムーラ | ザ・グラン・ウィザード | ペドロ・モラレス
1996年
ジミー・スヌーカ | ジョニー・ロッズ | キラー・コワルスキー | キャプテン・ルー・アルバーノ | バロン・マイケル・シクルナ | パット・パターソン | ザ・バリアント・ブラザーズ(ジミー・バリアント、ジョニー・バリアント) | ビンス・マクマホン・シニア
2004年
ビッグ・ジョン・スタッド | スーパースター・ビリー・グラハム | ボビー・ヒーナン | ドン・ムラコ | グレッグ・バレンタイン | ハーリー・レイス | ジェシー・ベンチュラ | ジャンクヤード・ドッグ | サージェント・スローター | ティト・サンタナ | ピート・ローズ
2005年
カウボーイ・ボブ・オートン | ハルク・ホーガン | ジ・アイアン・シーク | ジミー・ハート | ニコライ・ボルコフ | ポール・オーンドーフ | ロディ・パイパー
2006年
ザ・ブラックジャックス(ブラックジャック・マリガン、ブラックジャック・ランザ) | ブレット・ハート | エディ・ゲレロ | ジーン・オーカーランド | センセーショナル・シェリー | トニー・アトラス | バーン・ガニア | ウィリアム・ペリー
2007年
カート・ヘニング | ダスティ・ローデス | ジェリー・ローラー | ジム・ロス | ミスター・フジ | ニック・ボックウィンクル | ザ・シーク | ザ・ワイルド・サモアンズ(アファ・アノアイ、シカ・アノアイ)
2008年
ザ・ブリスコ・ブラザーズ(ジャック・ブリスコ、ジェリー・ブリスコ) | エディ・グラハム | ゴードン・ソリー | メイ・ヤング | ピーター・メイビア | リック・フレアー | ロッキー・ジョンソン
2009年
ビル・ワット | ハワード・フィンケル | ザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク) | ココ・B・ウェア | リッキー・スティムボート | ストーン・コールド・スティーブ・オースチン | ザ・フォン・エリックス(フリッツ・フォン・エリック、ケビン・フォン・エリック、デビッド・フォン・エリック、ケリー・フォン・エリック、マイク・フォン・エリック、クリス・フォン・エリック)
2010年
アントニオ猪木 | テッド・デビアス | マッドドッグ・バション | ウェンディ・リヒター | ゴージャス・ジョージ | スチュ・ハート | ボブ・ユッカー
Posted by tokyokarasu2010 at 19:38│Comments(0)
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